霞が関ビルと新光三越ビルを建てた台湾人・郭茂林の秘められた物語

社会

酒井 充子 【Profile】

故郷台湾への恩返し

郭さんは戦後、日本国籍を取得したが、故郷の台湾を忘れることはなかった。日本で蓄積した技術と経験を台湾へ持ち帰る。台北駅前の三越デパートが入った新光ビルは、台北を訪れたことがある人なら一度は目にしているだろう。このビルは郭さんが自ら設計した。外壁の色は、台湾の梅と日本の桜をイメージしたという。京劇が上演できるホールを備えた台湾セメントビル(台泥大樓)や、MRTの駅名にもなっている台湾電力ビル(台電大樓)もそうだ。新光ビルは竣工した1993年から台北で一番高いビルの地位にあったが、2004年に当時世界一となった台北101(509メートル)にその座を譲った。

台北の新光ビルを望む、2010年(郭純氏提供)

ところが、この101もまた、郭さん抜きでは語れない。元総統の李登輝が台北市長となった78年から約2年にわたり、郭さんは台北の都市計画を任されていた。台北駅や総統府がある市の西側に対し、東の信義地区を副都心として開発するというもので、元は西にあった台北市役所を東へ移転させ、それを中心に経済と文化の拠点となる街づくりを目指した。

ここには計画に参加した新宿副都心での経験が生かされている。郭さんの構想は、計画から四半世紀経って完成し、その場所に101が建ったのだった。

映画の撮影最後の夜、KMG台北事務所で一緒に仕事をした部下たちとその家族、数十人が集まった。皆グラスを持って郭さんのそばに行き、郭さんは乾杯を繰り返した。頬を赤らめて締めのあいさつ。「郭茂林グループ。わたしたちはグループです。一人では何もできない」。後世に語り継がれる数々のビル建設を支えた郭茂林という男は、最後の最後まで仲間を大切にした。人の縁に恵まれた建築家人生であったと思う。

バナー写真=同僚たちとともに。中央のダブルスーツが郭茂林氏、1968年ごろ(郭純氏提供)

この記事につけられたキーワード

台湾 建築 霞が関ビルディング 高層建築

酒井 充子SAKAI Atsuko経歴・執筆一覧を見る

映画監督。山口県周南市生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。メーカー勤務、新聞記者を経て2009年、台湾の日本語世代に取材した初監督作品『台湾人生』公開。ほかに『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(13)、『台湾アイデンティティー』(13)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(14)、『台湾萬歳』(17)、著書に「台湾人生」(光文社)がある。現在、台湾の離島・蘭嶼を舞台に次作を制作中。

このシリーズの他の記事