霞が関ビルと新光三越ビルを建てた台湾人・郭茂林の秘められた物語

社会

酒井 充子 【Profile】

原点は台湾にあった

郭さんが建築の世界で活躍するに至った原点と言えるのが台北州立台北工業学校(現・国立台北科技大学)である。彼はここで建築の基礎を学んだ。2010年、89歳で母校を訪問した際、「校史館」に足を運んでいる。

ここには、日本統治時代の1912年に「工業講習所」として設立されたときから現在に至るまでの学校の歴史資料がまとめられている。入口を入ってすぐのところに、歴代校長の写真がパネル展示してあった。映画にはパネルに向かっておじぎをするシーンがあるが、実はカメラが捉え切れなかったその直前の郭さんの姿が、私は忘れられない。

写真の中に千々岩助太郎校長の顔を認めた瞬間、背筋を伸ばしてさっと帽子を取ったのだ。そのしぐさは、まるで学生に戻ったかのようだった。千々岩は台湾の先住民族の住居を詳細に調査し、記録したことで知られる。郭さんは卒業した1940年、鉄道省に就職するために東京へ行くのだが、そうするよう勧めたのが千々岩校長だった。8人きょうだいの末っ子である郭さんが基隆から日本へたつとき、母親は「泣いてしまうから」と港には来なかった。「おっぱいが大きくて、料理が上手な人だった」と郭さんが聞かせてくれた。

一度だけ郭さんが「台湾精神」という言葉を口にしたことがある。日本人に負けるもんか、という気持ちだという。日本統治下の台湾では、さまざまな面で差別があり、進学においてもそうだった。台北工業学校は台湾人の学生よりも日本人の方が圧倒的に多く、郭さんは1年浪人して、狭き門をくぐったのだった。台湾精神は聞き慣れない言葉ではあるが、当時の台湾の人たちが心のどこかに抱いていた思いであることは間違いない。

「天の時、地の利、人の和」

郭さんは愛され方を知っていた人でもある。東京で就職した職場の上司から「君はまだ若いのだからもっと勉強しなさい」と、東大時代の友人で安田講堂などの設計で知られた建築学科の岸田日出刀教授を紹介された。しかし、岸田教授はすぐに受け入れてくれない。あるとき、岸田教授の随筆に「毛筆の手紙をもらうとうれしい」とあるのを読んだ郭さんは、すぐに筆で手紙を書き、再度弟子入りを申し込んだ。手紙が功を奏したのか、やがて1943年、聴講を許される。

後に研究室の助手に採用され、岸田教授と建築計画学の吉武泰水教授の下で約20年におよぶ研究に携わった。その後、63年に三井不動産に顧問として招かれる。助手として研究室を支えた経験が、その後の郭さんの役割を決定付けたのだろうか。

郭さんは霞が関ビル誕生の鍵として「天の時、地の利、人の和」の三つを挙げた。時は日本の高度経済成長期。1961年に特定街区制度、63年に容積率制度が設けられ31メートル(百尺)の高さ制限が撤廃された。このタイミングで、建設地となった霞が関3丁目の東京倶楽部と霞会館が相次いで建て替えを計画し、2棟分の土地が空くことに。そこが隣の会計検査院と併せて特定街区に指定され、超高層ビル計画が現実のものとなったのだ。

この地には、かつて工部大学校があった。いまの東大工学部の前身の一つで、1877(明治10)年創設。明治政府が日本人技術者の養成を目的とし、東京駅を設計した辰野金吾や、迎賓館の片山東熊らを輩出した。建築史家の鈴木博之は著書「東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]」で「ここに、百年近く後になって、日本最初の超高層ビルが建てられることになったのは、やはり土地の地霊がここを嘉(よみ)したもうたからだろうか」と述べている。この土地が郭さんを必要としていたのかもしれない。そして、郭さんがまとめた人の和こそがプロジェクトの推進力となった。霞が関ビルは今でこそごく普通のビルだが、建設現場で採用された防火設備や軽量コンクリート、タワークレーンのクライミング工法などの特許は約40件にも及び、その後の超高層建築の基礎となった。

「工部大学校阯」碑。正面奥が霞が関ビルディング(筆者撮影)

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映画監督。山口県周南市生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。メーカー勤務、新聞記者を経て2009年、台湾の日本語世代に取材した初監督作品『台湾人生』公開。ほかに『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(13)、『台湾アイデンティティー』(13)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(14)、『台湾萬歳』(17)、著書に「台湾人生」(光文社)がある。現在、台湾の離島・蘭嶼を舞台に次作を制作中。

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