霞が関ビルと新光三越ビルを建てた台湾人・郭茂林の秘められた物語
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「一人では何もできない」が口癖の建築家がいた。台湾出身の郭茂林。竣工(しゅんこう)から半世紀を過ぎた霞が関ビルディング(東京都千代田区)をはじめ、日本と台湾の超高層建築のさきがけとなった数々のプロジェクトをまとめた名プロデューサーは、何よりもチームワークを大切にした人だった。
建設業界では有名な郭さんだったが、一般にはあまり知られていない。私はドキュメンタリー映画『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(2013年公開)で晩年の郭さんと接し、「人の和」を説く場面に何度も遭遇した。郭さんは12年に91歳で亡くなったが、映画は2018年7月に台湾のテレビ局公共電視で放送され、郭さんは作品とともに久しぶりの里帰りをした。ここで、いま一度郭茂林という人物について、彼の映画を撮った監督の立場から振り返っておきたい。
いつの間にかプロジェクトの中心人物に
東京・浜松町の世界貿易センタービル、新宿の京王プラザホテル、池袋のサンシャイン60。郭さんは霞が関ビルのみならず、日本および台湾における初期の超高層プロジェクトの全てに関わった。日本で初めて100メートルを超えるビルとなった霞が関ビルは、地震大国・日本で超高層が実現できるのかという難題を突破するところから始まった。施主、設計者、研究者、メーカー、施工者が課題を設定し、その解決法を探りながら設計の詳細を詰めていった建設委員会は、総勢150人以上に上ったという。
当時の三井不動産社長、江戸英雄氏が雑誌のインタビューでこう話している。「自然に郭さんがこの委員会の実質的な中心人物になっちゃったんです。実に人柄がいいんですよ」。
しかし、性格がいいだけでは仕事にならない。郭さんには東京大学建築学科で培った専門知識の裏付けがあった。各分野の専門家が意見を持ち寄ると、時としてぶつかることもあるが、郭さんは緩衝材の役割を果たしながら、議論を前に進めていった。世界貿易センタービルでは、予算超過問題で行き詰った段階で呼ばれ、各方面との調整役を果たして超過をゼロにした上、38階建ての計画を40階建てにするという神業をやってのけた。
郭さんは「自分は何もしていない。才能のある人たちに実力を発揮してもらうためのお手伝いをしただけ」と言っていた。現在は一般的にプロジェクトマネージャーと呼ばれるが、このような新たな巨大プロジェクトから生まれた、郭さんのようなまとめ役をどのように呼べばよいのか、当時業界を悩ませたそうだ。霞が関ビルでは「メーン・コーディネーター」、世界貿易センタービルでは「コンダクター」となった。郭さんはコンダクターには弱った。「私はそんな高い台になんか上がっていません」と。
郭さんは霞が関ビルの建設中にKMG建築事務所を開設した。この社名に彼の信念が刻まれている。KMGは郭茂林グループの略。郭茂林だけではだめなのだ。仲間と力を合わせるグループでなければ。かつて共に仕事をした人たちに郭さんのことを聞くと、異口同音に「上には歯に衣(きぬ)着せず、下には厳しくも優しい人だった」と語った。仕事を離れても、ゴルフのハンデはシングルで銀座へ行けば女性にモテまくる、とくれば、非の打ちどころがないではないか。こんな人と仕事をしたい!とだれもが思うような理想的人物だったというわけだ。
原点は台湾にあった
郭さんが建築の世界で活躍するに至った原点と言えるのが台北州立台北工業学校(現・国立台北科技大学)である。彼はここで建築の基礎を学んだ。2010年、89歳で母校を訪問した際、「校史館」に足を運んでいる。
ここには、日本統治時代の1912年に「工業講習所」として設立されたときから現在に至るまでの学校の歴史資料がまとめられている。入口を入ってすぐのところに、歴代校長の写真がパネル展示してあった。映画にはパネルに向かっておじぎをするシーンがあるが、実はカメラが捉え切れなかったその直前の郭さんの姿が、私は忘れられない。
写真の中に千々岩助太郎校長の顔を認めた瞬間、背筋を伸ばしてさっと帽子を取ったのだ。そのしぐさは、まるで学生に戻ったかのようだった。千々岩は台湾の先住民族の住居を詳細に調査し、記録したことで知られる。郭さんは卒業した1940年、鉄道省に就職するために東京へ行くのだが、そうするよう勧めたのが千々岩校長だった。8人きょうだいの末っ子である郭さんが基隆から日本へたつとき、母親は「泣いてしまうから」と港には来なかった。「おっぱいが大きくて、料理が上手な人だった」と郭さんが聞かせてくれた。
一度だけ郭さんが「台湾精神」という言葉を口にしたことがある。日本人に負けるもんか、という気持ちだという。日本統治下の台湾では、さまざまな面で差別があり、進学においてもそうだった。台北工業学校は台湾人の学生よりも日本人の方が圧倒的に多く、郭さんは1年浪人して、狭き門をくぐったのだった。台湾精神は聞き慣れない言葉ではあるが、当時の台湾の人たちが心のどこかに抱いていた思いであることは間違いない。
「天の時、地の利、人の和」
郭さんは愛され方を知っていた人でもある。東京で就職した職場の上司から「君はまだ若いのだからもっと勉強しなさい」と、東大時代の友人で安田講堂などの設計で知られた建築学科の岸田日出刀教授を紹介された。しかし、岸田教授はすぐに受け入れてくれない。あるとき、岸田教授の随筆に「毛筆の手紙をもらうとうれしい」とあるのを読んだ郭さんは、すぐに筆で手紙を書き、再度弟子入りを申し込んだ。手紙が功を奏したのか、やがて1943年、聴講を許される。
後に研究室の助手に採用され、岸田教授と建築計画学の吉武泰水教授の下で約20年におよぶ研究に携わった。その後、63年に三井不動産に顧問として招かれる。助手として研究室を支えた経験が、その後の郭さんの役割を決定付けたのだろうか。
郭さんは霞が関ビル誕生の鍵として「天の時、地の利、人の和」の三つを挙げた。時は日本の高度経済成長期。1961年に特定街区制度、63年に容積率制度が設けられ31メートル(百尺)の高さ制限が撤廃された。このタイミングで、建設地となった霞が関3丁目の東京倶楽部と霞会館が相次いで建て替えを計画し、2棟分の土地が空くことに。そこが隣の会計検査院と併せて特定街区に指定され、超高層ビル計画が現実のものとなったのだ。
この地には、かつて工部大学校があった。いまの東大工学部の前身の一つで、1877(明治10)年創設。明治政府が日本人技術者の養成を目的とし、東京駅を設計した辰野金吾や、迎賓館の片山東熊らを輩出した。建築史家の鈴木博之は著書「東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]」で「ここに、百年近く後になって、日本最初の超高層ビルが建てられることになったのは、やはり土地の地霊がここを嘉(よみ)したもうたからだろうか」と述べている。この土地が郭さんを必要としていたのかもしれない。そして、郭さんがまとめた人の和こそがプロジェクトの推進力となった。霞が関ビルは今でこそごく普通のビルだが、建設現場で採用された防火設備や軽量コンクリート、タワークレーンのクライミング工法などの特許は約40件にも及び、その後の超高層建築の基礎となった。
故郷台湾への恩返し
郭さんは戦後、日本国籍を取得したが、故郷の台湾を忘れることはなかった。日本で蓄積した技術と経験を台湾へ持ち帰る。台北駅前の三越デパートが入った新光ビルは、台北を訪れたことがある人なら一度は目にしているだろう。このビルは郭さんが自ら設計した。外壁の色は、台湾の梅と日本の桜をイメージしたという。京劇が上演できるホールを備えた台湾セメントビル(台泥大樓)や、MRTの駅名にもなっている台湾電力ビル(台電大樓)もそうだ。新光ビルは竣工した1993年から台北で一番高いビルの地位にあったが、2004年に当時世界一となった台北101(509メートル)にその座を譲った。
ところが、この101もまた、郭さん抜きでは語れない。元総統の李登輝が台北市長となった78年から約2年にわたり、郭さんは台北の都市計画を任されていた。台北駅や総統府がある市の西側に対し、東の信義地区を副都心として開発するというもので、元は西にあった台北市役所を東へ移転させ、それを中心に経済と文化の拠点となる街づくりを目指した。
ここには計画に参加した新宿副都心での経験が生かされている。郭さんの構想は、計画から四半世紀経って完成し、その場所に101が建ったのだった。
映画の撮影最後の夜、KMG台北事務所で一緒に仕事をした部下たちとその家族、数十人が集まった。皆グラスを持って郭さんのそばに行き、郭さんは乾杯を繰り返した。頬を赤らめて締めのあいさつ。「郭茂林グループ。わたしたちはグループです。一人では何もできない」。後世に語り継がれる数々のビル建設を支えた郭茂林という男は、最後の最後まで仲間を大切にした。人の縁に恵まれた建築家人生であったと思う。
バナー写真=同僚たちとともに。中央のダブルスーツが郭茂林氏、1968年ごろ(郭純氏提供)