台湾を変えた日本人シリーズ:砂糖王国を築いた新渡戸稲造

歴史

今も語り継がれる台湾製糖業への貢献

新渡戸は、台湾製糖業の基礎を築いた上で、1903年に京都帝大法科大学の教授を務めるために帰国するが、それ以後も台湾総督府嘱託として台湾農業を指導し続けた。帰国した新渡戸は第一高等学校校長、東京帝国大学教授、国際連盟事務次長などを歴任し、カナダのビクトリア市で膵臓炎のために倒れ、1933年、71歳の生涯を閉じた。

新渡戸の努力によって発展した台湾の製糖会社は、45年日本の敗戦によって大きく様変わりする。台湾における台湾製糖、塩水港製糖、大日本製糖、明治製糖の4社は、その資産を中華民国政府によって接収され、46年5月に合併されて台湾糖業公司として設立した。台湾糖業公司は50年代から60年代にかけて、大量の砂糖製品を輸出し、大企業に成長した。台湾糖業公司は現在でも台湾最大の地主であり、農場を中心に台湾各地に広大な土地を所有している。通称「台糖」と呼ばれ、台湾における歴史ある企業として今も活動している。

新渡戸の台湾製糖業のへ貢献は現在、台湾高雄市の台湾糖業博物館で見ることができる。その博物館では、ビデオ解説と工場見学で当時の製糖産業の様子を学ぶことができる。ここには、奇美実業(チーメイ)の創業者である許文龍氏が制作した新渡戸像が2012年6月に設置され、台湾の糖業に尽くした功績を顕彰している。また、許氏は、新渡戸稲造記念館や盛岡市にも銅像を寄贈してその功績に報いている。

バナー写真=初秋の盛岡・新渡戸稲造生誕の地、銅像(ペイレス / PIXTA)

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