台湾を変えた日本人シリーズ:砂糖王国を築いた新渡戸稲造

歴史

サトウキビ品種の切り替えで生産増に成功

新渡戸は、農業が国造りにおいて、いかに重大な基礎をなすものであるかを知っていた。その考えは、1898年の『農業本論』に記している。代表的な部分を要約する。

「国内に農業の力を蓄えないままに、国外に商工業の力だけで雄飛しようとすることは、まるで鳥が、樹木や岩石に巣を構えることをしないで、遠く遥かな海洋を両方の翼だけで飛ぶようなものである。農業は一万年生きる亀のようなもので、商工業は一千年生きる鶴のようなものである。つまり、農業は一定の土地を固く末永く守る働きをし、商工業は広く且つ高く飛躍してその勢力を高める働きをする。よってこの両者がお互い揃(そろ)って初めて経済の発展も見ることができ、理想的国家の隆盛をもたらすことができる」

新渡戸は、商工業と共にしっかりとした農業の基礎があってこそ、理想的国家の隆盛があると説いている。新渡戸はこの考えを台湾の糖業で実践しようとした。赴任すると半年かけて全島を巡り、台湾の殖産興業の要は製糖業にあると確信した。そして、全島調査の後、パリで開かれた万国博覧会へ出掛けたのを機に、欧米諸国およびその他の植民地の製糖設備を調査し、帰途はエジプトとジャワ島へ寄り、製糖業経営の実地視察、殖産局長としての心得を学んで帰ってきた。

そもそも台湾の製糖業は、オランダ続治時代以来の主要産業で、茶、樟脳(しょうのう)に並ぶ三大輸出産業の一つだった。しかし、日本領台前とその初期には、台湾産サトウキビの品種は茎が細くて収穫量も少なく、品種改良が必要だった。新渡戸は、サトウキビの品種改良、栽培、加工などの意見書である「糖業改良意見書」を児玉と後藤に提出した。そして、外国から台湾の風土にあった品種を導入し、在来種との切り替えを進め、栽培方法を改良した。さらに収穫期を異にする品種をそれぞれ栽培して、台湾の製糖工場が一年中稼働するようにした。

1906年12月には明治製糖株式会社が塩水港庁に設立され、さらに日本の大日本製糖株式会社も台湾へ進出した。これに対し、台湾製糖も21年7月に九州製糖工場を竣工させ、台湾で製造した原料糖を神戸と九州の2工場で精製する体制を築いた。こうして、1902年には5万5000トンだった製糖生産量は、25年には約8倍の48万トンに達した。36年から翌年の最盛期には年産100万トンを超えるまでになり、台湾における製糖産業は日本の消費を満たして余りあるようになる。

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