台湾を変えた日本人シリーズ:砂糖王国を築いた新渡戸稲造

歴史

2016年の米国農務省統計によると砂糖生産量のトップ3は、ブラジル、インド、EUである。日本は24位で台湾より多い。しかし、台湾を領有した頃の日本は、砂糖消費量の大部分を輸入に頼っていた。そこで第4代台湾総督の児玉源太郎と民政長官の後藤新平は、植民政策の中心を産業振興に置き、その中心に糖業奨励を推進することにして、台湾に新式製糖会社を設立することを企画した。その立役者になったのが、旧5千円札に肖像が描かれていた新渡戸稲造である。

2年がかりの説得の末、台湾総督府の技師として赴任

当時、後藤の依頼を受け、三井物産から台湾製糖投資の実施調査団が派遣されたが、その報告は、治安の問題などに鑑み、台湾の製糖業の発展は非常に難しいというものであった。台湾総督府は、多額の補助金を付けてもらえるのであればという三井物産側の条件をのみ、1900年12月に株主95名、資本金100万円で「台湾製糖株式会社」の設立に何とかこぎ着けた。

総督府が台湾製糖に対し、設立と同時に1万2000円、翌年には5万5780円の補助金を交付していることを見れば、いかに製糖業の推進を望んでいたかが分かる。同社は、台南県橋仔頭庄に台湾最初の新式機械製糖工場を建設し、02年1月に操業を開始した。台湾製糖の設立をきっかけとして03年12月に塩水港製糖株式会社も設立された。この間、台湾の製糖産業の発展に力を尽くしたのが、農業が専門の新渡戸稲造だった。

新渡戸は、岩手県盛岡(現在の盛岡市)に武士の子として生まれ、札幌農学校二期生として入学している。同級生には広井勇、内村鑑三、南鷹次郎、宮部金吾などがいる。1884年に、広井勇の渡米に刺激を受け、23歳で米国へ渡った。その3年後にはドイツに留学して農学を学び、日本で最初の農学博士号を得ている。ドイツからの帰途、教会で知り合った米国人のメアリーと結婚した。91年には札幌農学校の教授として赴任するため帰国した。ところが、夫婦ともに体調を崩したため農学校を休職して、米カリフォルニア州で養生していた。静養中の1900年に書いた『武士道』は、ドイツ語の後、フランス語翻訳されたのを皮切りに次々と世界各国で翻訳され、新渡戸の名前は国際的に知れ渡った。

後藤は、同じ岩手出身というよしみもあり、早くから新渡戸を総督府技師として招聘(しょうへい)しようとするも「身体が弱いので」と断わられ続けた。しかし、2年がかりで口説き「1日1時間の昼寝の時間を約束する」という条件を付けて新渡戸を説得。01年に札幌農学校を辞職した新渡戸は、39歳で台湾総督府の技師として赴任した。総督府の執務室に入った新渡戸は、昼寝用のベッドがすでに置かれているのを見て後藤の心遣いに感涙したという。

次ページ: サトウキビ品種の切り替えで生産増に成功

この記事につけられたキーワード

台湾 新渡戸稲造 後藤新平

このシリーズの他の記事