日本人はどうして席を譲らないのか?——台湾の「同理心」と日本の「自己責任」から考える

文化 社会

「ほら、こっちに座りなさい」

電車やバスの中で身体の不自由な人、妊婦、高齢者、小さな子供づれの人を見かければ誰かしら声を掛ける。声を掛けられた人も素直にそれを受け入れるし、「もうすぐ降りますので」という反応でも特に気まずい空気が生まれることはない。シャイな若者の場合、声は出さずとも、気付けばさっと身体を動かす。今では見慣れた台湾のバスや電車での光景だが、最初は驚いた。なぜなら現在の日本では残念ながら、こういった光景が一般的ではない。日本は、公共の場において親切さに欠ける社会である。妊娠・出産後、しばらく東京で過ごした筆者は身をもってそれを実感した。あれから10年ほどたつのだから、少しは何かしら改善されたのではと思っていたが、知人から現状を聞けば、むしろ状況は悪くなってさえいるようだ。

諸外国に比べて席を譲らない日本人

台湾でよく使われる言葉に、「同理心」という単語がある。日本語に翻訳する場合は「共感」という言葉に近いが、相手の立場や理屈に立って物事を考えるというニュアンスがより多く含まれ、一語で表すことは難しい。言葉は、その社会や文化を表す。つまり日本は「同理心」を生かす機会が少ない社会といえる。実際に多くの台湾人が、来日してショックを受けた事柄として「日本人が席を譲らないこと」を上位に挙げている。

「公共交通車内における協力行動と規範に関する国際比較」(※1)という論文によれば、席を譲る行動について「行いたい」「行うべき」という日本人の規範意識は他国(英国、フランス、ドイツ、スウェーデン、・韓国)に比べて同程度かむしろ高いにも関わらず、「実際の行動に移しているか」という行動頻度については、他のどの国よりも圧倒的に低い平均値を示している。

マタニティマークと妊産婦への思いやりを訴えるポスター(撮影:高橋 郁文)

近年の日本において妊娠期を過ごした経験を持つ知人らに聞き取りを行ったところ、マタニティマークを付けていて席を譲られた経験は、実感として2割ぐらいだという。眠っていたり、スマホに熱中したり、気付いていないふりをされたりすることも多い。首都圏に暮らすある台湾人女性は、妊娠中に通勤電車の中でどれだけ席を譲られたかを毎日記録していた。土・日曜日を除く1カ月を20日と設定し、往復で40回乗車したうち、譲ってもらえたのは3~6回というから、結果は2割にも満たない。お腹の大きさが目立つようになって、割合はいくらか上がったようだが、それでも5割程度という。台湾ならば、お腹の目立つ妊婦が立っているのを放って置かれる方がまれだろう。

妊娠初期は体調がすぐれないことも多い。つわりがひどく、立ったままの電車通勤に耐えられず、安定期に入るまで1カ月休職せざるを得ない時期もあった。会社はデスクワークだったので仕事は何とかこなせたが、通勤さえ座ってしのげれば休職する必要はなかったといい、「すべての女性が輝く社会づくり」という言葉が首相官邸のホームページに大きく掲げられている国の実態がこれか、と悲しくなる。高齢者に関しても同様で、70代ぐらいの人が90代の人に席を譲るなど、お年寄り同士で助け合う場面はあっても、若い人から席を譲られる機会は少ないという意見が多かった。

これらは首都圏でのみ目立つ現象なのか知りたくて、首都圏以外(札幌、長野、名古屋、京都、大阪、奈良、熊本)で妊娠・子育て経験者や高齢者の方にも聞いてみたところ、首都圏に比べいくらかましとはいえ、台湾と同じくらいとは言い難かった。日本人の誇りは何かと問われて、おもてなしの心やマナーの良さを挙げる人は多いだろう。それなのに、多くの外国人から呆れられるぐらいに「席を譲る」ことができないのは、どういった論理や心の作用から来ているのだろうか。

(※1) ^ 「公共交通車内における協力行動と規範に関する国際比較」、2015年『土木学会論文集D3(土木計画学)』川村竜之介、谷口綾子、大森宣暁、谷口守

行き過ぎた「自己責任」がマイナスに作用

よく言われる理由に、日本人の通勤時間が長いことが挙げられる。残業や激務で疲れており、自分を後回しにできる心理的・体力的な余裕が生まれない。茨城県から都内へ通勤をしている男性は、席を確保するため4、5本の電車を見送ることも少なくない。そうまでして手に入れた席を譲る気持ちにはなれないという。また、高齢者に席を譲るのをためらう理由として、「年寄り扱いされるのを嫌がる高齢者がいる」「譲ろうとしても断わられ、時には逆ギレされることもある」という話も耳にする。台湾の場合も、こうした例がない訳ではないが、だからといって「以降はもう譲らなくていい」とは考えないだろう。これについてある台湾人は、「そんなことを恐れていたら、本当に席を必要とする人を助けられない」と答えた。こうしてみると、他人との間に発生する迷惑への恐怖心や面倒を煩わしく感じる気持ちは、日本人と台湾人では随分と差があるようだ。

例えば台湾の「同理心」に対し、日本で最近よく見聞きする言葉に「自己責任」がある。これは、2004年のイラク邦人人質事件で日本社会に定着し、最近ではシリアで人質になり解放されたジャーナリスト・安田純平さんを非難する際に使われ、多くの論争を巻き起こした。本来は「契約などにおける免責事項(英語ではOwn risk)」を表す概念だったが、現在は強者が弱者を助けることを拒否し、そうした状況を嘲笑するニュアンスで使われることもある。こうした多義的な日本の「自己責任」という言葉を台湾の言葉に翻訳する場合、やはり一言で表すのは難しい。今の日本社会で、妊娠や高齢ということは「自己責任」の範囲にあり、人に迷惑をかけないようにひたすら我慢すべきという意識が働いているのかもしれない。日本人は幼いころから徹底的に「他人に迷惑・面倒をかけない」ことを美徳として身に付けるが、それが今では逆に「迷惑や面倒をかけられることを許さない」といった負の気持ちを増幅させる原因になっているようだ。

一方の台湾では、自分と他人との関係は、凸凹の面が組み合っているような状態だ。相手に迷惑をかけることがあるかもしれないが、逆に相手が困っているような状況なら、その面倒は引き受ける。多くの接点があるために、その摩擦からトラブルが発生することも避けられないが、孤立することもない。

もちろん物事には必ず短所と長所が生じる。震災などの非日常において、なるべく他人に迷惑をかけないよう行動する日本人の姿が、海外でも称賛を受けたのはその一例だろう。逆に台湾では、2018年9月、台風により関西国際空港で自由旅行客が一時的に空港に閉じ込められた際、台湾政府に救助を求める世論が台湾外交官を自死に追い詰めたのは、「自己責任」的な感覚の欠如の結果だったと言えるかもしれない。こうした行き過ぎた自国民の「同理心」は、当時の台湾のインターネット交流サイト(SNS)上で「巨大な赤ちゃん」と批判された。

とはいえ、現在の日本における弱者に対する「自己責任」を求める態度もまた行き過ぎと感じる。人生は長い。誰しもいつかは老いるし、不測の事態でいつ周りの手助けを必要とするようになるかも分からない。日本人が台湾を評価する際、「日本が失ってしまったものが残っている」と口にするのは、「お互いさま」という気持ちが台湾社会でまだまだ成立しているからではないだろうか。

バナー写真=妊婦に席を譲る若い女性(Ushico / PIXTA)

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