台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(3)

文化

墓碑はダムを見下ろす場所に設置

1942年5月8日、八田が乗った大洋丸は、米国潜水艦の攻撃で撃沈され、1000人余りの優秀な技術者と共に東シナ海に沈んだ。享年56歳だった。一方、外代樹夫人は、夫の死後も台湾に残り、終戦時は、浩子、玲子、成子と共に疎開先の烏山頭で迎えていた。学徒動員に出ていた次男の泰雄が8月31日に帰ってきた翌9月1日未明、「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟姉妹仲良く暮らしてください」と遺書をしたため、烏山頭ダムの放水プールに身を投げた。45歳の若さだった。

戦後、外代樹夫人の死は「夫を慕うあまりの死」として語られ日本人女性の美徳として広まっていた。大宅壮一ノンフィクション賞作家の鈴木明氏でさえも78年に出版された「続・誰も書かなかった台湾」の中で「電報を手にしたとき『みやと慕いてわれはゆくなり』 という遺書を残して嘉南大圳に身を投げて死んだ」と間違った記述をしている。 この間違った遺書の与えた影響は小さくない。外代樹夫人の死は、殉死でなく精神的なダメージを受けた結果の死と考えるのが妥当と筆者は考えている。そうでなければ、利発な外代樹夫人が8人もの子どもを残して死ねるわけがない。

終戦当時、烏山頭出張所の所長だった赤堀信一は、六女の成子から外代樹夫人の不明を知らされ、真っ先に現場に駆け付けた。八田夫妻とは古くから交流があった。赤堀は八田夫妻が烏山頭の地で永眠することを願い、水利協会に相談した。夫妻が「台湾に永住する」ことを聞いていた水利協会の職員は、赤堀の申し出に即断し、ダムを見下ろす場所に墓碑を置くことに同意した。

大理石なら幾らでもある台湾で、日本式の墓石にするため御影石を探した。高雄で福建産の墓石を見つけ、銅像があった場所の後ろに建立した。46年12月15日のことである。墓碑には昭和21年でなく中華民国35年と彫られた。赤堀の指示だった。「中華民国暦にしておけば、将来この墓碑が台湾人によって造られたと言われるようになるだろうが、それで良い。八田夫妻もそれを喜ぶはずである」。やがて歴史はそれを証明することになる。

バナー写真=台湾南部の台南市で、修復された日本人土木技師・八田與一の銅像に献花する台湾人女性、2018年5月8日(時事)

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