台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(3)

文化

古川 勝三 【Profile】

友人への手紙から分かった八田與一の先見性

八田が設計した烏山頭ダムはセミハイドロリックと呼ばれるもので、粘土を含む砂利を送水管で運び、積み上げてダムを造る工法だ。この工法には「セミ」が付いているが、土砂の運搬に水を使わず列車を使って運んでいるからで、東洋では唯一、その規模が世界最大の半射水式アースダムである。八田がこの工法を提案した理由は2つある。一つは日本同様に地震の多い台湾で1273メートルもの長大なダムをコンクリートで造りたくなかった。さらにダムを構築する烏山頭周辺の地質が粘土質で、近くの曽文渓には築堤に必要な砂利が大量にあったからだ。実際、烏山頭ダムにはわずか0.5%のコンクリートしか使われていない。

八田の親友に1年後輩の石井頴一郎がいた。石井は1885年、神奈川県横須賀市に生まれ、1911年の大学卒業後は横浜市水道局を皮切りに、水力発電などを研究、特にダム工事を研究した。38年10月、日本電力取締役を辞任し、台湾電力顧問に就任。大甲渓、その他のダム、発電所について工法指導をした技師である。八田とは生涯の友で、頻繁に手紙のやりとりをした。その中にセミハイドロリックに関する貴重な八田からの手紙が見つかったので紹介する。

「米国でシルラーという技師が射水式ダムを考案した。ダム付近の高地にある土砂に射水を吹き付けて山地を崩かいし、桶(おけ)でその土汁を運搬して、ダムを造るのであるが、常に条件が良いというわけにはいかないから『カラベラスダム』の如(ごと)きは、礫(れき)が不足のため工事中決壊を起こした。烏山頭は周囲の山が全部粘土だから、この土だけでダムを造るのは危険であると思った。そこで曽文渓から適当な砂礫(されき)を汽車で運搬してきて、ダムの両側に捨て、それに射水して粒度を大小に分解しダムを築造する案を考え出した。その頃はまだ米国に半射水式ダムの現れていない時代だったから奇抜な方法と思われたのも無理はない。自分はこの工法がベストと信じたから、それを実行しようとした。ところが当時の○○技監(注:文字が不明瞭のため○○とした)や山形課長はどうしても許してくれない。そのような射水ダムは、ないというのである。だから自分が発明したのだと言っても、外国にないものは、相成らぬと言って、大反対だった。しかし、自分はその工法以外に安全な案はないと信じていたから、それなら自分の意見を学会に発表して賛否を問うことにしてはどうかと申し出たところが、かかる役所の秘密を発表することはもっての外だと言って、これさえ許してくれない。かといってみすみす危険だと思う工法を遂行することができるものではない。かような有様でもめていたが、大正9年米国でホルムスという技師が半射水式を発明し、一方純射水式のカラベラスが工事中潰れたので、漸く自分の意見が認められ、半射水式工法によってあのダムが出来たのであった。同時に15万町(1町=約1ヘクタール)歩の耕地が、甘藷と水稲と三年輪作に成功したのも、自分の創案が認められた結果である。こんな訳で半射水式は米国に先鞭(せんべん)をつけられたが、自分の創案の方がはやかったことをひそかに誇りにしている」

この手紙は、八田がセミハイドロリック工法と三年輪作給水法(3種類の作物を輪作し、1年ごとに給水地域を変える方法)を創案していたことが伺える貴重な資料である。もしこの時、八田の提案を受け入れて実施していたら、烏山頭ダムはセミハイドロリック工法による世界初の世界最大のダムとして記憶されたに違いない。役人の「前例がない」思考は、昔も今も変わりがない。

次ページ: 墓碑はダムを見下ろす場所に設置

この記事につけられたキーワード

台湾 台南 烏山頭ダム 灌漑 嘉義農林

古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

このシリーズの他の記事