
台湾和牛のルーツ「見島ウシ」を訪ねて
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山口県萩市から40キロ離れた見島(みしま)は、県内最北端にあって、周囲14キロほどの小さな島だ。ここに和牛の原型といわれる「見島ウシ」が、「見島ウシ産地」として国の天然記念物に指定されている。牛では他に鹿児島県口之島(くちのしま)に生息する「口之島牛」も指定されているが、飼育されているのは見島ウシのみである。
インドをルーツとする牛がアジア大陸から日本列島へ渡ってきたのは、弥生時代とも古墳時代とも言われる。その後、農耕や荷役などの役畜として定着した牛を明治時代に入って外国種と交配させて作った黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種の4種類が「和牛」として認定されている。このうち黒毛和種が全体の約95%を占めており、和牛の代名詞的な存在となっている。「松阪牛」や「神戸牛」「米沢牛」など高級ブランド牛として知られる牛肉は、黒毛和種の地域ブランドだ。
実は、見島ウシも明治期に外国品種との交配に踏み切ろうとした記録が残っている。山口女子大学元学長で農業経済学者だった中山清次氏の著書に「明治中期、見島がデボン系改良和種である島根県産種雄牛を導入し、見島牛の改良を図ったが、間もなくこの改良事業を中止して再び在来種見島牛を温存した」とある。事業中止の理由は不明だが、結果的に見島ウシは在来種と外国種を掛け合わせて作られた「和牛」よりも、純血度の高い在来種として残ったのは奇跡だろう。
見島ウシは台湾和牛「源興牛」の祖先か
2017年、台湾で日本産の和牛が輸入解禁となり、日本各地のブランド和牛が手に入るようになったことでブームが起きている。そんな中、元総統の李登輝氏が育てた台湾和牛「源興牛」のニュースが流れたのは17年秋のことだった。(注・日本の和牛種はオーストラリアでも数多く飼育され、海外市場でも人気だ。日本産のものを「和牛」、外国産のものを「Wagyu」と表示して区別するが、ここでは台湾での表記そのまま「台湾和牛」とする)
農学博士でもある李氏は、日本時代に日本本土から持ち込まれ、現在の陽明山に放牧されていた黒毛牛19頭を、戦後に買い取って花蓮で飼育を開始。三芝の実家の居所名の「源興居」から取って「源興牛」と名付けた。その源興牛のDNAを調べたところ、何と見島ウシに最も近かったという。つまり萩市見島にすむ「見島ウシ」は、李氏が育てている「源興牛」の祖先に当たるかもしれないのだ。
見島の人々の暮らしに寄り添ってきた「千年の牛」
2018年7月、私は日本海側の萩港から「おにようず」という名の連絡船で見島に向かった。「おにようず」は「鬼楊子」と書き、家の跡継ぎが生まれた年末に6畳分ほどの鬼の顔を描き、大空へ揚げる見島伝統のたこを指す。幻の牛ともいわれる「見島ウシ」に会えることで、気分はたこのように高揚した。
萩港から見島を結ぶ連絡船「おにようず」(左)。名前の由来は跡継ぎが生まれた年末に作成される見島伝統のたこから来ている(右)
見島が見えてくると、灰色のレーダー施設が見えた。ここから先は韓国、北朝鮮、ロシア、中国へとつながり、日本からアジア大陸を見れば、見島は対馬に次ぐ最前線であることを実感する。古くから大陸との交易の中継地点だった見島だが、文献から少なくとも6世紀ごろには、大和朝廷から「防人(さきもり)」に任じられた人々がここで暮らしていたと伝わっている。防人から自衛隊へ時代が変わってもこの島の地理的な役割は変わらない。
日本全国の農村を調査し、地域文化や農業に関する著書が多い石井里津子氏は『千年の田んぼ』(旬報社、2017年)で、見島の南西側にある「八町八反(はっちょうはったん)」と呼ばれる田んぼは、実は6~7世紀に作られた条理(当時の中央政府が定めた戸籍を反映させた田んぼの単位)であること、そしてこの見島の条理が、およそ1300年間そのままの形で残っている「奇跡の田んぼ」であると記している。見島ウシの祖先はおそらく稲作技術とセットで農耕牛としてこの島に渡ってきたのではないだろうか。見島で人々の暮らしに寄り添いながら日本在来種として残った見島ウシは、まさしく「千年の牛」なのだ。