嘉納治五郎と勝海舟
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講道館柔道に感嘆した勝海舟
「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮(きわ)む」
これは勝海舟(1823〜1899年)が嘉納治五郎(1860〜1938年)に寄贈した書である。治五郎は、1894年(明治27)、講道館を上二番町(現在の千代田区一番町)から小石川区下富坂町18番地に移し、そこにそれまでよりはるかに広い百七畳敷きの道場を新築した。5月20日、講道館大道場の落成式に来賓として招かれた海舟が、治五郎が演じた講道館の形を見て、感嘆して認めたのであった。治五郎が演じた柔道の形は、無心で自然であり、それ自体美しく、またその技の変化する様は神業の極みである、との意味である。海舟は治五郎に影響を与えた人物の一人である。
治五郎の父、嘉納次郎作は治五郎が6歳の時から、漢学を勉強させた。1870年に母親が他界すると、治五郎を東京に連れて行き、漢学のみならず、英語の勉強も治五郎にさせたのであった。治五郎が幼少期を過ごした1860年代の日本は、鎖国していた武士の時代から、開国する新しい明治の時代に移り変わる激動の時代であった。治五郎が生まれる7年前の1853年にアメリカのペリー提督が4隻の黒船で浦賀(三浦半島)に来航して開国を要求する。翌54年、200年以上続けた鎖国を解いて幕府は開国した。
治五郎が生まれた1860年に、海舟、福沢諭吉らが日本初の渡米使節団として咸臨丸で米国に渡り、外国との交流が本格的に始まる。一方、66年に薩摩藩と長州藩による薩長同盟ができ、1867年に第15代将軍徳川慶喜は、政権を天皇に奉還し、明治新政府が誕生する。明治政府と旧幕府軍との戦争(戊辰戦争)が起きて明治政府が勝利すると、江戸を東京と改称した。父・次郎作に連れられて神戸から東京に移った頃、治五郎は外国から入ってくる物資や文化、技術などを幼いながら、目の当たりにしたに違いない。
父の縁で知り合う
この激動の時代に活躍した英雄が勝海舟である。勝は、黒船来航後に出した海防意見書が幕府に認められ、長崎海軍伝習所に勤務した。米国からの帰国後も、軍艦奉行として神戸海軍操練所を開設するなど、海運関係の重職についた。戊辰戦争の折には、西郷隆盛に談判し、江戸城の無血開城を成功させた。それ以降も、明治政府の参議、海軍卿などを歴任した。
治五郎と海舟との出会いは、父・次郎作が大阪で幕府の海上輸送の仕事をしていた関係で、海舟との交流があったことがきっかけである。1863年に海舟が神戸や西宮での砲台建設を命じられた際、次郎作はそれを手助けした。次郎作は、1867年に兵庫開港が決まると、外国との貿易のため、日本初の商社を設立するなど進歩的な人物であった。明治維新後も次郎作は政府に起用されて、造船、皇居造営などに功績を残した。父を通して海舟を知った治五郎は、その親交を深めたのであった。
「柔道の父」を作った開明的視点
そんな嘉納治五郎に勝海舟が教え諭したエピソードがある。大学を卒業して学習院の教員をしていた頃、治五郎は海舟を訪ねて、しばらく学問に没頭しようと思う、と述べた。すると勝は、「学者になろうとするのか、それとも社会で事をなそうとするのか」とたずねた。治五郎は「後者で、そのためにしばらく学問に集中したい」と答えると、海舟は、「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ」と忠告した。この言葉は深く治五郎青年の心を打ち、以降、治五郎は、実際に必要なものに応じて本を読み、勉強するようになったという。海舟の教えは、実践的な知に基づく教育を施していく基盤になったのである。
江戸から明治に移り変わっていく時代に、開明的でかつ実学的な視点を備えた勝海舟との出会いが、柔道を通しての実践的教育家・嘉納治五郎を作り上げた一因といえる。
バナー写真 東京・墨田区にある勝海舟の銅像(真田久氏提供)