明治維新と近代日本:現代につながるインフラを築いた長州五傑

文化 歴史

明治維新の少し前、5人の長州藩士が藩命を受けて密かに英国に渡った。西洋先進国の技術や制度を学んだ彼らは、日本の近代化に大きく貢献する。

現代の日本は主要な先進国、世界有数の経済大国として知られている。ここに至るまで数多くの段階を経てきたが、明治維新後の近代化はその重要な一段階として位置づけられよう。この近代化はどのように成し遂げられたのだろうか。国家の基礎となるインフラ整備を進めた長州五傑に注目して考えてみる。

幕末の密航と長州五傑

長州五傑とは、海外への渡航が極めて難しかった幕末の1863年5月に横浜を出発し英国へ密航留学した、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の5名の長州藩士である。彼らは、西洋で技術を学んで「生(いき)た器械」(※1)になることを志し、長州藩が主導する攘夷(じょうい)運動を有利に進めたり、あるいは諸外国と交わっていく準備をしたりしようとした。

英国で語学を学び諸施設を見学して、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで分析化学を受講し始めると、諸外国が下関を攻撃するとの情報を得て、伊藤と井上馨は数カ月で帰国した。残りの3名は他の理系科目も受講し、66年初頭に遠藤は帰国の途につく。井上勝はユニバーシティ・カレッジの修了証を得て、鉄道や鉱山の現場にも出ていたとされる。山尾はグラスゴーへ向かい造船所で見習工として働き、夜間はアンダーソンズ・カレッジに通って技術と知識を獲得し、両名共に68年11月に日本に戻った。

長州五傑(萩博物館所蔵)。遠藤謹助(左上):近代的な造幣事業のスタート段階で大きな役割を果たした「造幣の父」 井上馨(左下):初期大蔵省を整備すると共に、鹿鳴館外交で知られる「外交の父」 井上勝(中央):日本における鉄道の導入から拡大までを主導した「鉄道の父」 伊藤博文(右上):初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法制定に尽力した「内閣の父」 山尾庸三(右下):鉄道、電信、造船などを統括する工部省の創設、工部大学校の設立に尽力した「工学の父」(「」内の表現は長州五傑顕彰碑による。以下見出しの()内の表現も同じ)

伊藤博文(内閣の父)と井上馨(外交の父):政治家として活躍

井上馨と伊藤博文は帰国後に長州藩内で政治的地位を上昇させ、新政府発足後は洋行経験を生かして開港場(外国貿易のための港)で外交の最前線を担う官僚となった。その後、2人は財政・民政に加え近代化事業も管轄した大蔵(民部大蔵)省へ異動となり、幹部となる。この間、伊藤は立場を超えて廃藩置県を視野に入れた提言をして批判を浴び降格となった。両者共に中央集権化の進め方をめぐって辞表を提出したが、彼らを守ったのは当時貴重な洋行経験であった。結果的に井上馨が積極的に関わり、1871年7月に廃藩置県が断行され、中央集権体制が形成される。

井上馨は大蔵省次官に昇り、各省に年間予算を設定させ、歳入状況を踏まえ査定して予算を決定するという現代に通じる予算制度の基礎を築いた。73年5月に下野するも数年で政府に復帰し、76年6月からの洋行を経て、78年7月に国政決定に当たる参議に就任した。伊藤は70年11月から立て続けに2度洋行し、政策能力を高め、政治的に立場を上昇させ、73年10月に参議となった。

両者は失敗しながらも、出身藩のつながりだけでなく、洋行経験と政策知識を生かし新政府内で出世した。以降政治家として活躍し、井上馨は初代外務大臣、内務大臣などを歴任した。伊藤は内閣制度を導入して、初代内閣総理大臣に就任し、憲法制定、議会の創設にも深く関わるなど、現代までつながる政治・行政の制度形成に尽力した。

井上馨(左)と伊藤博文(国立国会図書館蔵)

山尾庸三(工学の父):インフラ整備と人材育成に貢献

山尾は長州藩に戻った後、1870年4月に新政府の民部大蔵省で、まず横須賀造船所の責任者となる。しかし、財源が限られる中で近代化事業を積極的に推進することに批判が集まり、すぐに政治問題へと発展した。そこで山尾は政治対立と距離を置いて、独立して着実に近代化事業が進められるよう工部省の設立を提案し、実現に持ち込んだ。

工部省庁舎正面(郵政博物館収蔵)

山尾は、鉄道、電信、造船などの近代化事業を統括する工部省の事実上の中心人物として、政策決定や予算獲得において、時に出省拒否や指令無視など、政府の制度が整備途上であった時期だからこそ許された手法も駆使して、ひたすら事業の前進に力を尽くした。72年の東京・横浜間の鉄道開業や、東京・長崎間の電信開通など、草創期の交通・通信インフラの基礎形成に貢献した。同時に組織整備を進め、人材登用と育成にも力を入れた。特に技術者養成を重視し、最終的に工部大学校(現・東京大学工学部)を創設し、官民に少なからず技術者を供することにもなった。

山尾は長官まで昇進し、81年10月に工部省を去る。その後は法制局長官などに就くが、工部省時代の輝きを見せることはなかった。もう近代化事業を政府が積極的に推進する段階ではなくなっていた。

井上勝(鉄道の父):鉄道建設の礎を築く

長州藩に戻っていた井上勝も、1869年10月に新政府の造幣と鉱山部門の責任者になる。お雇い外国人が近代的な事業展開を指導する両部門で、彼らと協力して事業を進めることが期待された。71年8月には工部省で鉄道部門責任者となる。この部門もお雇い外国人に依存していたが、語学力と理系知識を有する井上勝は彼らと協力しながら事業を推進し、72年に京浜間、74年に阪神間、77年に京阪間で鉄道を開業させた。

汐留ヨリ横浜迄鉄道開業御乗初諸人拝礼之図(物流博物館所蔵)。1872年、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業した。この錦絵は開業当日の記念列車を描いたものだ

井上勝(国立国会図書館蔵)

そして井上率いる鉄道担当組織は留学経験者を採用し、内部で技術者を養成して、技術的に自立していく。その結果、高給のお雇い外国人の数を減らすとともに、彼らと意思疎通ができるだけの技術官僚は能力不足となっていった。その後、工部大学校や東京大学理学部出身の次世代の技術官僚が加わるようになり、彼らの力によって鉄道網は拡大し、89年に東海道線が、93年には信越線が全通した。そこでは、大河川の橋梁(きょうりょう)建設や山岳区間のアプト式採用など、当時の先端技術が積極的に取り入れられた。

やがて井上勝ら初期からの技術官僚は古い世代となり、93年3月に井上は退官した。明治初期に自らの知識を誇り、それを背景に強引に政策を決定に持ち込む井上勝のような存在は、初期の鉄道建設で大きな意味を持ったが、政治・行政が整備される中では時代遅れになった。こうした技術官僚の世代交代とともに鉄道建設自体は順調に進んでいった。

遠藤謹助(造幣の父):近代的な貨幣を鋳造

遠藤は帰国後に長州藩士として大きな活躍はできず、新政府で1868年1月に兵庫で税関の前身である運上所のトップとなり、その後、流通や貿易を管理する組織の幹部に就く。いずれも外国商人の多い開港場での仕事で、英語のできる遠藤に適任であった。

70年11月に造幣局幹部に転じる。同局は翌年2月に開業式を行い、西洋から機械を輸入し、遠藤は指導者であるお雇い外国人と意思疎通を図りながら事業を推進し、近代的な貨幣の鋳造という成果を残した。遠藤は事実上技術官僚の役割を果たす。

一方で、お雇い外国人と日本人幹部との関係は不明確で、遠藤もこの関係に苦しめられ、74年8月に造幣局を去るが、転任間際に多数のお雇い外国人の雇止めを行った。このことは、短期間で日本人による技術習得が進み、工程によってはお雇い外国人を置く必要もなくなったことを示す。その後も造幣局では技術的自立が進み、日本人だけでほとんどの工程が担当できるようになっていく。遠藤も81年11月に造幣局長として戻り事業を支えた。そして、工部大学校や東京大学理学部出身者が造幣局に採用され世代交代が進み、遠藤も93年6月に退官した。こうして造幣事業は、現在まで続いていく。

長州五傑と日本の近代化

長州五傑は新政府でそれぞれにふさわしい立場を得て、西洋諸国を念頭に各分野の近代化を推し進めた。そして、鉄道、造幣、技術者養成機関、予算制度、内閣と憲法など、現代社会につながるような諸基盤を生み出したのであった。その際、洋行経験やそれに由来する政策知識を活用し、鉄道や造幣など技術に関わる部門では、お雇い外国人、西洋に通じた人材、新たに育成された人材が協力し、うまく交代して成果を残した。

明治維新後の近代化にはさまざまな理由があろうが、長州五傑のような人材が政府の諸分野に存在し、熱心に任務を遂行しつつ、お雇い外国人から新たに育成された人材へ橋渡ししたことも、その大きな要因と言えよう。

諸外国から見れば東洋の島国の一事例にすぎないが、その事例から自国の近代化を見つめ直すこともできるだろう。また、西洋諸国出身のお雇い外国人の功績も忘れてはならない。日本人への技術伝習を積極的に行えば行うほど自らの解雇の可能性が高まるにもかかわらず、彼らは日本の近代化に貢献してくれた。現代社会においても、この事実はさまざまな示唆を与えてくれるのではないだろうか。

バナー写真=日本の近代化に尽力した長州五傑(萩博物館所蔵)

(※1) ^ 「井上馨関係文書」(国会図書館憲政資料室所蔵)より引用。

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