台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(2)

文化

フィリピンへの航海中に訪れた悲劇

八田が勅任官になり2年がたった1939年12月8日、対米交渉で追い詰められた日本は、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を連合艦隊に発し、太平洋戦争が始まった。戦雲は軍人だけでなく、八田をも巻き込んだ。42年4月20日、陸軍から米軍が破壊したフィリピンの綿作かんがい施設の調査命令を受けた八田は、3人の部下を同行し「南方資源開発要員」として宇品港から大洋丸に乗り込んだ。大洋丸は技術者1010人、軍人34人のほか、約300人の乗組員を乗せて5月5日午後7時30分に出港、滑るように瀬戸内海を南下した。8日、五島列島沖に差し掛かった時、米国潜水艦が発射した魚雷4発を受け、大洋丸は有能な技術者を道連れに東シナ海に没した。八田は56歳だった。

悲劇はまだ続く。

45年9月1日、3人の娘と共に台北から烏山頭に疎開していた八田の妻、外代樹夫人がダムの放水プールに身を投げ自死した。45歳の若さだった。

台湾永住を決めていた夫妻のことを知った組合は、ダムを見下ろす丘に日本式の墓碑を造り夫妻を納骨し、除幕式を行った。以降、公共埤圳嘉南大圳組合は八田の命日5月8日が来る度に、毎年墓前にて追悼式を行ってきた。今年も約300人が参加して、盛大に行われた。

バナー写真=台湾台南烏山頭水庫(harvest / PIXTA)

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