
台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(2)
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苦難を乗り越え、10年後にダムが完成
1920年9月1日、烏山頭の工事起点となる小高い丘で起工式が行われた。
工事は4カ所に分かれて行われることになっていた。一つは曽文渓から取水するための烏山嶺隧道掘削工事、二つ目は濁水渓からの直接取水工事、三つ目は烏山頭ダム構築工事、最後が水路をネットワーク化する給排水路工事である。これらの工事が広大な嘉南平原全域で行われるが、最も重要なのが烏山頭ダムの建設で、工事現場の責任者は当然ながら設計者の八田が当たった。
八田はこのとき、驚く行動に出た。「この工事は人力より機械力が成否を決める」と考え、現場の職人が見たこともない大型土木機械を、渡米して大量に購入した。さらに「安心して働ける環境無くして、良い仕事はできない」との考えから工事現場の原生林を切り開き、68棟もの宿舎を造って200戸余りの部屋を新築した。その上、従業員のための学校、病院、購買所、風呂、プールに弓道場、テニスコートまで造った。工事を請け負った大倉土木組の倉庫や事務所、それに烏山頭出張所を加えると、常時約1000人が暮らす町が出来上がった。他の町から働きに来る人を含めると2000人近くになるため、台南州は急いで警察派出所を造ったほどだった。
だが、不幸が工事現場に襲い掛かった。22年12月6日、烏山嶺隧道掘削工事中に入り口から900メートル掘り進んだところで、噴出してきた石油ガスに引火し大爆発が起きた。この事故で50数人の作業員が死傷した。工事を始めて2年目だった。八田は打ちひしがれたが、遺族の「亡くなった者のためにも、工事を必ずやり遂げてほしい」との言葉に励まされ、決意を新たに工事に取り組んだ。ところが半年余りたった1923年9月1日、東京を直下型の巨大地震が襲った。関東大震災である。そのため、台湾総督府から多くの義援金が贈られたが、工事の補助金は半減される事態になり、職員の半数を解雇せざるを得なくなった。八田の部下は優秀な人間を残してほしいと頼んだが、悩んだ末、八田は優秀な職員から解雇した。「優秀な職員は就職口があるが、そうでない者は路頭に迷う」と言って、退職金を渡しながら涙を流したという。解雇した職員の再就職先は、組合より給料が良いところにわざわざ世話をした。その上、満額の補助金が付くと、希望する者は全員雇い入れたというから、八田の人間性にひかれる人が多かった。震災の影響で工事期間と予算が見直され、全ての工事が完了したのは、着工から10年後の30年だった。その間に烏山頭で亡くなった人は家族を含め134人にもおよんだ。八田は殉工碑を堰堤の下に造り、日本人や台湾人の区別なく死亡順に名を刻んだ。5月10日には竣工(しゅんこう)式が行われ、ダムの放水門から激流となった水が、1万6000キロメートルの給排水路に流れ込んだ。水路の水を目にした農民は、信じられない思いで叫んだ。
「神の水だ。神が与えてくれた恵みの水だ」
この時から、八田は「嘉南大圳の父」として嘉南60万の農民から慕われ、尊敬されるようになる。神の水が全ての水路に行き渡るのに3日を要した。その間、烏山頭では2600人近い日本人や台湾人の従業員による祝賀会が続いた。世紀の大事業は終わった。八田は家族とともに7月には烏山頭を去り、再び総督府の技師として活躍する。翌年の7月には、機械掛長の蔵成信一を発起人代表とする親睦会「烏山頭校友会」から八田の銅像が届き、ダムを見下ろす丘に設置された。
完成から3年後には、不毛の大地15万ヘクタールが、蓬莱米、サトウキビ、野菜による三年輪作給水法によって緑野に変わった。総督府の考えた食糧増産計画は成功を収め、米も砂糖も日本へ大量に移入されるようになった。その結果、嘉南の農民は経済的に豊かになり、生活が一変した。奇美実業の創業者で2013年秋に旭日中授章を受章した許文龍氏は「台南では町の人より農民の方が豊かなのが不思議だった」 と少年時代を私に語っている。