台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(1)

文化

古川 勝三 【Profile】

不毛の地を緑野に変えろ

八田は、嘉南平原の調査で広大な土地が不毛の地として放置されているのを目の当たりにした。さらに日々の飲料水にも事欠く農民の生活環境にもがくぜんとした。貯水池が造れる場所は曽文渓の支流、官田渓だけだったことも分かった。八田はここに水路を引けば、台湾最大の緑野に変わるはずだと考えた。

総督府に帰任した八田は、基本計画を作り、山形に提出した。「官田渓埤圳工事計画」である。書類に目を通し終えた山形は一言、「ばか」と叫んだ。「2万2000(ヘクタール)の桃園埤圳だけでも大変なのに、7万5000のかんがいだと、大風呂敷を広げやがって……」

山形が落ち着くのを見定めて、八田は説明を始めた。聞き終えた山形は、納得したのか「下村(宏)長官に上げてみる」と言った。数日後、下村に呼ばれ「米の増産とサトウキビの増産をするためのかんがい施設を考えてくれ」と要請を受けた。

八田はサトウキビ12万トンの増産のため、かんがい面積を15万ヘクタールに拡張した。新たな水源には台湾最大の濁水渓からの取水を考えて計画書を作り提出した。下村は日月譚水力発電計画と官田渓埤圳計画の二つを国会に提出した。その結果、電力会社案には予算が付いたが、かんがい計画案は調査不十分という理由で、再度調査して提出することになった。

4万5000円の調査費が付いたため、各班長に阿部貞寿、齋藤己代治、佐藤龍橋、小田省三、磯田謙雄を指名し総勢60人の作業員と共に嘉義高砂ホテルに陣取り、不眠不休で半年間調査に没頭した。調査は測量に始まり、烏山頭ダムや給排水路の支線、分線まで行い、設計図と共に予算書を作成して再度国会に提出された。

バナー写真=台湾台南烏山頭ダムの八田與一像(Kenichi Horie / PIXTA)

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1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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