台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(1)

文化

古川 勝三 【Profile】

ダムに適した土地を探せ

桃園埤圳の工事を指揮して2年あまりが経過し、山形に呼び出された八田は、水力発電用ダムと米の増産用かんがいダムの適地を探す依頼を受けた。

山形が高雄港湾課長のとき、高雄を一大工業地帯に、港を世界貿易港にすべきとの持論があった。実際、急激に工業化が進み電力不足が現実となっていた。しかし、かんがい用ダムの建設は事情が違った。日本では米不足が深刻で、インディカ米を南京米と称して輸入に頼っていた。1918年には米騒動が起き、食糧増産が急務となっていた。台湾を食料供給地と捉えていた政府は、総督府に対して米の増産を要請してきたのだ。

山形の要請を受けた若き技師が適地探しのために台湾全島を調査した。熱帯独特の気候や道なき道の踏破に苦しみながらも、水力発電用のダムの適地は、技師の国広により発見された。台湾中部の湖、日月譚である。

工事は台湾電力を設立し、技師長の堀見の指導・監督の下で19年に着工した。一方かんがい用ダムの適地は、嘉義庁長の相賀照郷の要請から始まった。相賀は「桃園埤圳のようなかんがい施設を嘉義にも造ってほしい」と山形に繰り返し求めたため、2週間の期限付きで八田が調査することになった。相賀は非常に喜び、支庁長や外勤警部補を案内役に14カ所の適地を調査した。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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