台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(1)

文化

古川 勝三 【Profile】

最年少で「桃園埤圳」の大かんがい工事を担当する

八田は土木の新天地・台湾行きを迷うことなく決め、卒業した翌月の1910年8月に渡台した。24歳のときである。赴任したのは台湾総督府土木部工務課で、技術職では14人の技師と八田を含め31人の技手がいた。技師の中には浜野弥四郎川上浩二郎、十川嘉太郎、清水一徳、堀見末子、国広長重、大越大蔵ら帝大の先輩が多忙な生活を送っていた。

浜野弥四郎(古川 勝三氏提供)

赴任して4年目には技師に昇進し、衛生工事担当になった。14年、「台南上水道新設工事」が、浜野の設計で実施されることになり、八田もこれに加わった。工事は、曽文渓を水源に「山上」に水源地と浄水場を設け、人口3万人の台南市に、10万人分の飲料水を供給する画期的な近代工事だった。10年近い期間を要し、22年に完工する。この工事に関わったことは、八田にとって有益だった。浜野の仕事に対する考え方や生きざまに感銘を受けただけでなく、仕事の進め方や作業員の配置、それに曽文渓を中心とした地形にも詳しくなった。

工事に携わって2年が経過した年に人事異動があり、土木課長には技師の山形要助が、八田はかんがい担当に異動した。後ろ髪を引かれる思いで浜野と別れ、台南を去った。

その頃、水不足に悩む北部の桃園台地に埤圳(ひしゅう)を構築する計画が総督府内で浮上した。桃園台地には「埤塘(ひとう)」と称する貯水池が数千を数え、農民の貴重な糧になっていた。しかし、水が不足すると「埤塘」が干上がって生産体系が崩れ、住民の生活を脅かす。それを恐れた総督府は、桃園台地に2万2000ヘクタールの優良な水田を得る目的でそれぞれの埤塘をつなげるかんがい計画を立案、土木局の官費官営工事として実施することにした。

「桃園埤圳」と名付けられたかんがい工事は土木課が担当することになり、山形は工事を最年少技師の八田に任せることにして、呼び戻した。

八田は事前調査と測量を行い、これを基に技手の狩野三郎を中心とする若手技術者が設計と施工を担当した。基本設計は淡水河の支流、大漢溪上流の石門峽、現在の石門ダムの左岸に取水口を設け、約25キロの導水路を造り、導水路の途中に貯水池を設け、ここから幹線、支線、分線の給水路を通して、河川の水と雨水を利用してかんがいするというもので、石門取水によるため池かんがい方式を取った。

当然、それまでに造られていた数多くの埤塘も利用した。ため池の堤高を高くして貯水量を増やし、埤と埤をつなげるための水路、圳を設けた。大きなダムを造らず、大小のため池を活用して、貯水量を増やす画期的な工事は、世界的にも例を見ない方法だった。16年11月に着工し、総事業費約770万4000円を費やして、8年後の24年に完工した。

94年たった今日でも桃園台地を潤し、そこに住む人々に多くの恩恵を与え続けている。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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