台湾で根を下ろした日本人シリーズ:風景の一部となる——写真家・熊谷俊之

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熊谷 俊之 KUMAGAI Toshiyuki

1971年栃木県生まれ。台湾在住の日本人写真家として、内外から熊谷を推す声は多い。政治家から芸能人まで数多くの人物をカメラに収めてきた。また、自転車で「環島」と呼ばれる台湾一周の旅や、日月潭を泳いで横断、台湾の百名山に登り、伝統行事にも潜入する行動派、体験派の一面を持つ変幻自在の写真家だ。2017年2月には、これまでの業績が評価され、台湾交通部観光局から「台湾観光貢献奨」を受賞した。

先住民族の生活記録が写真家への転機に

熊谷が初めてカメラを手にしたのは中学3年の春。部活での所属は柔道部だったが、仲の良かった剣道部顧問の教師の勧めで買ったニコンのF301が、彼の最初の「相棒」だった。高校には進学せず、予備校に通いながら15歳で大学入学資格検定(大検)に合格。この話題は新聞やテレビ、雑誌でも多数取り上げられ、地元の群馬では一躍時の人となる。英語は苦手だったが、小さい頃から漢字には興味があった熊谷は、予備校時代の講師が「これからの時代は社会学か人類学」と述べた言葉が耳に残っていたことなどが伏線となって、1991年に台湾師範大学に語学留学。その翌年、台湾大学に進学すると人類学を専攻した。なぜ台湾だったのか。

実は熊谷の母や祖母は、第二次世界大戦前、台北市の六張犁に住んでいた。祖母は台北の建成小学校で教えていたが、のちに自宅と同じ建物の1階にあった育児院の子供たちと寝起きを共にするようになった。その中の一人に、今も中山北路に店を構える「林田桶(おけ)店」の店主、林相林がいた。店を継がせるために日本人の家庭を体験させておきたいという親の方針から、林はこの育児院に預けられていた。おのずと熊谷の母親とも幼なじみとなった。それから四十数年の時を経て、語学留学で台湾に渡った熊谷の身元保証人となってくれたのが、林だった。台湾師範大学での中国語習得は、日々の自分の進歩に手応えを感じ楽しかったと振り返るが、台湾大学での授業は苦痛だったと笑う。

「人類学科はテキストが英語ばかりで、まさか台湾に来てまで英語で四苦八苦するとは思ってもみませんでした。忙しくて趣味の写真までなかなか手が回りませんでしたが、それでも籍だけは写真サークルに置いていました」

大学3年の時にフィールドワークに入った花蓮の太魯閣で、台湾先住民族のタロコ族(当時はタイヤル族の支族に分類)の集落に2週間近く滞在し、彼らの生活を記録としてカメラに収めた。タロコ族の集落では、お年寄りがきれいな日本語を話すのを耳にして、熊谷は台湾の歴史に関心を持ち始める。

「おじいさん、おばあさんの話す日本語は『1945年』で止まっていたのです。こちらの背筋が思わずピンと伸びるような日本語でした。美空ひばりのカセットテープを擦り切れるまで聴き、日曜日の昼には、沖縄から傍受した電波でNHKラジオの『のど自慢』を心底楽しむ姿にも衝撃を受けました」

この頃、熊谷は写真家を職業にしようと決意する。96年に台湾大学を卒業すると、翌年から東京の赤坂スタジオでカメラマンとしての修行を2年間みっちりと積んだ。99年6月からはフリーのアシスタントとなり、その年の暮れには、ほぼ3年ぶりに台湾に舞い戻った。21世紀は台湾で迎えようと初めから心に決めていたのだ。

歴代の総統を撮り、知名度が急上昇

台湾に戻ると、広告代理店や出版社からの仕事で、雑誌の表紙やコラムを飾る台湾の著名芸能人や日系企業の社長の写真を担当した。ある時、日本の雑誌社の依頼で李登輝元総統を撮影するチャンスを得た。これをきっかけに熊谷の写真家としての知名度は一気に高まり、その後、陳水扁、馬英九、そして現職の蔡英文と歴代の総統を撮影する機会にも恵まれた。

しかし、熊谷の写真は人物だけにとどまらなかった。2007年に初めて台湾の最高峰である玉山(日本統治時代の呼称は「新高山」、3952メートル)に登頂したことをきっかけに、今度は台湾の自然にも引かれていく。緯度が低い台湾では、海抜3500メートルの地点でも樹林が広がり、それが新鮮だった。その後も玉山には15回、台湾第二の高峰、雪山(日本統治時代の呼称は「次高山」、3886メートル)にも3回、これまでに台湾百名山のうち21峰に登頂している。また、台湾の美しい風景を求めて、山奥の先住民族の集落や離島にも足を運んだ。熊谷は台湾の三大絶景として「南投水漾森林」「屏東好茶舊社」「馬祖大坵島」を挙げた。

提供:熊谷 俊之

「水漾森林は1999年の台湾中部大地震の際に、石鼓盤渓の水がせき止められてできた湖の中に杉林が残ってできた風景です。日月潭には1日の中に四季があると言われていますが、水漾森林は1時間の中に四季があります。それくらい表情が目まぐるしく変わるのが魅力です」

刻一刻と変化する景色を1秒たりとも逃さない。そんな気持ちがこの言葉にも表れている。しかし、水漾の杉林は大地震から20年近くがたち、水没した幹や根がいつまで持ちこたえられるのか分からない状態であるとも聞く。消えゆく景色だからこそ、写真家はなお、いとしく感じるのかもしれない。

南投水漾森林(提供:熊谷 俊之)

また、屏東好茶舊社は、台湾百名山で一番南に位置する北大武山を聖なる山とあがめる先住民族のルカイ族が、「石板屋」と呼ばれる伝統的な石造りの家屋で昔ながらの生活を営んでいる秘境だ。そして、離島の馬祖からさらに離れた大坵島は、夏のごく限られた期間に藻や夜光虫が青く光る珍現象「藍眼涙(青い涙)」で知られる。熊谷が挙げた場所は、いずれも陸の孤島か真の孤島で簡単に行ける場所ではない。しかし、興味を持った場所には必ず自分の足で赴くのが熊谷流なのである(ただし、大坵島は対岸の馬祖島北竿の町や沖を航行する船舶の明かりによる光害で、藍眼涙の撮影には必ずしも最適な環境ではないと熊谷は言う)。

屏東好茶舊社(提供:熊谷 俊之)

被写体の行事には自ら参加し、撮影するのがモットー

人物、風景の他に熊谷の写真にはもう一つの特徴がある。それは伝統行事や習俗を外からカメラに収めるのと同時に、自身がその撮影対象となる行事に飛び込んでしまうことだ。近年ブームの「環島」と呼ばれる自転車で台湾を1周するツアーや日月潭を泳いで横断するイベント「泳渡日月潭」、旧正月の15日前後に台東市で行われる奇祭「炸寒単爺」(爆竹をみこしの上の神様寒単爺に投げ込む祭り)の現場には、時に自転車にまたがり、また時に湖を泳ぎ、はたまたみこしの上で寒単爺の神様に扮(ふん)する熊谷の姿がある。

「世の中には文字だけでは分からないことがいっぱいあります。実体験で見えてくる世界があるのです。台湾をもっと知りたい、ただそれだけです。例えば、『炸寒単爺』では、みこしの上で体感する揺れや投げ入れられる爆竹で身体が灼(や)ける痛み、煙を吸い込んでの呼吸困難、これらによって意識が薄れて一種のトランス状態に陥り、本当に神様に近づけた気がしました」

撮影の対象にいったん内側まで入り込んで体感した上で、再びファインダー越しに対象を捉える熊谷のスタイルは、なかなかまねできるものではない。これは台湾という土地に対する止めどない好奇心と愛情があり、なおかつそれを支える体力と行動力があって初めて成り立つことなのだ。

提供:熊谷 俊之

台湾の「家族」が仕事の原動力に

熊谷には懇意にしてる台湾の家族がいる。大学3年の時にフィールドワークで太魯閣に入った際、お世話になったタロコ族の一家だ。30年近い歳月が流れ、最初に日本語で会話したおじいさん、おばあさんは既に亡くなり、小学生だった娘は母親になった。この一家の冠婚葬祭には必ず顔を出し、一家が台北に来ると熊谷の家で寝泊まりするという関係だ。2018年2月の花蓮地震では、この家族が住んでいた花蓮市内のマンションが半壊した。幸いけが人は無かったが、熊谷は取る物も取りあえず駆け付けた。喜怒哀楽を共にする家族がいるのも熊谷の強みだろう。

2012年頃から、日本の人々にも台湾の魅力を写真で伝えたいという気持ちが芽生え始める。この年、大阪を皮切りに、高松、東京、金沢で合計4回の個展を開催した。これらの取り組みが評価され、昨年交通部観光局から「台湾観光貢献奨」を受賞した。授賞式には日本から母親も「里帰り」を兼ねて駆け付けてくれた。写真家として一つの「勲章」を手に入れた熊谷は、これから何を撮り、伝えていきたいと考えているのだろうか。

台湾交通部観光局から「台湾観光貢献奨」を受賞する(提供:台湾交通部観光局)

「まだ登っていない百名山もありますが、普通の山や古道も歩いてみようと思います。また、大甲の媽祖巡礼のような生活文化に根差した行事に台湾の人たちがどう向き合っているのか、ありのままの姿を切り取っていけたらと考えています。そして、カメラを構える自分の存在感を無くしたいですね」

「自分の存在感を無くす」と語ったが、彼はとうにこの島に溶け込み、台湾の風景の一部となっている。尊敬する写真家を聞くと、グラビア写真家の渡辺達生の名を挙げた。直接の師ではないものの、彼のように「撮る人も、撮られる人も、また写真を見る人も楽しくなるような」写真を撮りたいと常に思っている。そして、もう一人尊敬する人物として、昨年ヘリコプターの墜落事故で亡くなった空撮の達人で『看見台湾(邦題:天空からの招待状)』の監督、齊柏林の名を挙げた。いかにもこの地を深く愛する熊谷らしい。

提供:台南市観光旅遊局

バナー写真提供:陳朝栄

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