金石堂城中店の閉店に思う

文化

木下 諄一 【Profile】

日本統治時代に始まった書店街としての歴史

重慶南路に書店街が誕生したのははるか日本の統治時代にまでさかのぼる。

1915年、台湾総督府が小中学校の教科書を出版する台湾書籍の店舗をここに設けたことが始まりだ。当時台湾で最大規模の書店、赤レンガのバロック建築が美しい新高堂が栄町通(現衡陽路)との交差点にオープン、日本から取り寄せた書籍や雑誌、地図などの販売を開始した。その後、新起町(現漢中街、長沙街付近)に全部で9店、栄町通や本町通にも文明堂などの大型書店が次々とオープンした。これによって、地域全体に文化的な空気と、台湾人の間に本を読む習慣が生まれた。

45年、終戦を迎えて日本人が引き揚げると、今度は中国から渡ってきた国民党政府と上海系の中国人がここの新たな主人となる。

台湾書籍は台湾書店、新高堂は東方出版社にそれぞれ名前を変え、日本語ではなく中国語の教科書や書籍を上海から取り寄せて販売した。有名な商務印書館ができたのもこの時代で、前身は日本の太陽号書店だ。こうした流れの中で、台湾の知識人たちはこれまで読むことがなかった中国の本を新鮮に感じながら、競ってそれらを読み始めた。

50年から80年にかけて重慶南路書店街は全盛期を迎える。

台湾の政局と経済が安定したことで人々は知識を渇望した。出版社も雨後のタケノコのごとく誕生し、60年代には『西部戦線異状なし』『風と共に去りぬ』『戦争と平和』といった世界の名作が翻訳出版されただけでなく、台湾独自の文学作品も多数生まれた。70年代になると、書店は本の輸入販売から独自に出版業務も行うようになり、大きく形態を変えたのだった。

金石堂城中店が誕生したのは85年のことだ。場所は総統府のすぐ近く、衡陽路との交差点で、東方出版社の向かい側という重慶南路最高のスポットだった。3階建てで、日本統治時代には西洋料理レストランやカメラ器材の店として使用され、今では二級古跡に指定されている。当地のランドマーク的存在でもあった。

重慶南路の書店街が目に見えて衰退を始めたのは、90年代の半ばを過ぎてからのことだ。ちょうどそのころMRT(台北メトロ)が完成し、台北市内のどこにでも簡単にアクセスできるようになったことで、繁華街の地図が塗り替えられ、重慶南路へ足を運ぶ人は大幅に減った。さらにインターネットの普及で、人々の消費形態に変化が見え始めたことも衰退に拍車を掛けた。全盛期は100軒以上がひしめき合っていた書店も、今ではわずか10数店にまで減ってしまった。

次ページ: 近年相次ぐ書店閉店のニュース

この記事につけられたキーワード

台湾 出版 文学 書店

木下 諄一KINOSHITA Junichi経歴・執筆一覧を見る

小説家、エッセイスト。1961年生まれ。東京経済大学卒業。商社勤務、会社経営を経て台湾に渡り、台湾観光協会発行の『台湾観光月刊』編集長を8年間務める。2011年、中国語で執筆した小説『蒲公英之絮』(印刻文学出版、2011年)が外国人として初めて、第11回台北文学賞を受賞。著書に『随筆台湾日子』(木馬文化出版、2013年)、『記憶中的影』(允晨文化出版、2020年)、『阿里阿多謝謝』(時報文化出版、2022年)、日本語の小説に『アリガト謝謝』(講談社、2017年)などがある。フェイスブックとYouTubeチャンネル『超級爺爺Super G』を開設。

このシリーズの他の記事