「台湾人元日本兵」を弔う公園を訪ねる

文化

そして、5月20日を迎える

現在、政治的な制約はなくなっているが、1995年末の時点で台湾に戻れなかった兵士は約200人いたとされている。また、台湾に戻れた兵士たちも、その数は年々減っており、証言を集めることは難しい。

前出の許昭栄氏は、台湾人兵士の悲劇を後世に伝えることを願い、台湾海峡に面したこの場所を購入。戦没者と年老いた仲間のために慰霊碑を建てようとした。公園設立の準備は順調に進んでいたという。

しかし、高雄市議会はこの公園の名を変更する決定を下した。「戦争」の文字を外し、単に「和平紀念公園」に変更することを決めた。そして、台湾人兵士のみならず、国共内戦を戦った国府軍戦没者全体を弔う空間とすることを強いてきたのだ。

名称変更の背景には、外省人勢力の思惑が絡んでいたと言われている。つまり、「和平(平和)」という言葉を前面に押し出し、外省人兵士を合祀(ごうし)することで、焦点をぼかす意味があった。そして、国民党政府が過去に行った不当な徴用について、責任追及の目をそらす意図もあった。

これを知って憤慨した許氏は2008年5月20日、焼身自殺を図った。死をもって議会に抗議したのだ。生前、「戦争の悲劇を無かったことにしようとする考え方を許すことはできない」と許氏は強く語っていた。遺書には、自らが「台湾魂」と化し、死をもって台湾国立の「戦争と平和記念公園」の誕生を促す旨が記されていた。

台湾人元日本兵の調査と支援活動に命を懸かけた許氏のモニュメント。毎年5月20日に慰霊祭が行われている(撮影:片倉 佳史)

なお、台湾人元日本兵の補償問題についても、日本政府の一方的な取り決めに対して不満を抱く老兵は多い。徴用についての人権問題や待遇の不公平さなど、問題は少なくない。時代に翻弄され、数奇な運命を強いられた台湾の人々だが、その悲劇は日本とも深いかかわりがある。

時代を生き抜いてきた兵士たちは高齢化が進み、年々その数が減っている。毎年5月20日、この公園では許氏を弔い、台湾人戦没者を祭る慰霊祭が執り行なわれている。生命と引き換えに自らの志を守った一人の元日本軍人。私たち日本人も、こうした史実にしっかりと向かい合い、台湾の歴史について考えたいところである。

バナー写真=高雄市にある戦争與和平紀念公園。「和平」は中国語で平和を、「紀念」は記念を意味する(撮影:片倉 佳史)

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