台湾で神社が多数造営されたわけ

文化

金子 展也 【Profile】

神社造営にブレーキをかけた戦争

1936年7月に総督府より「民風作興運動」が宣言され、敬神崇祖思想の普及、皇祖尊崇、そして、台湾人に対しては国語(日本語)普及および常用が求められた。その1年後の37年7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争へと発展する。そして、同年9月には第一次近衛内閣による「国民精神総動員運動」が提唱された。このような状況下、海軍軍人の小林躋造(こばやし・せいぞう)が第17代総督に就任すると、これまでの「民風作興運動」をさらに発展させた「皇民化運動」が提唱され、改めて、地方の行政単位である街や庄にまで神社を造営しようとする「一街庄一社」政策が叫び出された。この方策として神社参拝、大麻奉斎、そして、台湾人の家庭では正庁改善(祖先位牌や道教などの神々を祭る祭壇に代わり、大麻を祭った日本式神棚への改善)や寺廟整理(寺廟の取り壊しや統合)が展開されていった。

盧溝橋事件に端を発した日中戦争に続き、41年12月に日本は太平洋戦争に突入する。この頃になると既に地方財政の疲弊が現れ始め、神社敷地の買収費を含めた神社造営費はますます巨額となった。さらに神職の確保にも支障を来したため、新たな神社造営に急ブレーキがかかった。34年に北港神社が造営されて以来、終戦までの10年間に、わずか32社の神社が造営されたにすぎない。「一街庄一社」政策は掛け声に終わり、現実的な「一郡一社」程度で終わった。

一方で、新竹神社、台中神社や嘉義神社の県社から国弊小社への列格、また、数多くの無格社を郷社へ列格(37年10月~45年4月までの間に21社)することにより、神社の尊厳さを高めた。さらに、神社とは別に、その神社の管理に属した摂末社(せつまつしゃ)の造営や遥拝所(ようはいしょ)により、国家神道の浸透を図った。

バナー写真=現在の台湾神社跡地、円山大飯店(撮影:金子 展也)

この記事につけられたキーワード

台湾 神社 宗教 神道

金子 展也KANEKO Nobuya経歴・執筆一覧を見る

1950年、北海道生まれ。小樽商科大学商学部卒業。卒業後、日立ハイテクノロジーズで勤務、2001年より06年まで、台湾に駐在する。専門は日本統治時代の台湾に造営された神社の調査・研究。現在、一般財団法人台湾協会評議員。2012年から16年まで神奈川大学非文字資料研究センターで研究協力者として海外に造営された神社の調査研究を行う。著書に『台湾旧神社故地への旅案内―台湾を護った神々』(神社新報社、2015年)、『台湾に渡った日本の神々』(潮書房光人新社、2018年)

このシリーズの他の記事