日本と台湾と月刊『な~るほど・ザ・台湾』の休刊

文化

梶山 憲一 【Profile】

駐在員の減少、スマホの普及が痛手に

2000年代に入って、陳水扁政権の時代となり、さらに「台湾化」が進む。例えば「中国石油」が「台湾石油」に改名されたように「中華」や「中国」を冠した国営事業の改名などが行われた。だが、こうした「去中国化」ともいわれる中華文化から脱却する動きの一方、台湾の企業家、投資家らは中国に多額の投資をし、台湾と中国との両岸関係は急激に緊密なものになっていく。

中国の経済成長は著しく、ふと気が付くと、台湾から日本企業の駐在員が減っていた。中国へと駐在員を移転した企業も少なくなかったのだ。

継続的な読者である駐在員の減少は、『なる台』にとって痛手だった。しかし、日本から台湾への渡航者は05年に100万人を超えてその後も増え続け、旅行客の多様化はさらに進んだ。

私は、そんな事態が進行するさなか、縁あって03年3月から『なる台』の編集長を務めることになった。

03年春といえば、重症急性呼吸器症候群(SARS)が台湾でも感染が広がった時期である。日本からの渡航者と広告の依頼が減るという厳しいスタートだったが、7月にはSARSも収束し、日本人の渡航者も回復し出した。

日本人の台湾への関心の多様化に対し、私はさまざまなタイプの記事を打ち出した。哈日杏子さんや片倉佳史さんら、執筆者も力のある人に記事を依頼した。読者からは面白くなったと言われたが、フリーマガジンの資金源である広告依頼は増えなかった。

06年9月に私は編集長を降りて同誌顧問となった。私の後は3人が編集長となり、先述の片倉さんや木下諄一さん、栖来ひかりさんら、台湾在住の文筆家の寄稿もあって、誌面はさらに充実していったが、財務的には好転しなかった。

インターネットの普及や、90年代から既に始まっていた世界的な出版不況の影響もあったように思う。

そうして10年以降のスマートフォン(スマホ)の普及が追い打ちをかけた。

台湾の街を往く旅行者は、片手にスマホを持ち、もはや『なる台』を持っていない。『なる台』の役割はさらに限定的となったようだった。

今回の休刊に当たり、30年余りにわたる日台関係の進展の中で見える『なる台』の姿をラフスケッチしてみた。フリーマガジンに過ぎないけれど、人びとの記憶に残る役割はあったと思う。

休刊が一般に発表されて以降の2週間ほど、少なくない読者が休刊を惜しむ言葉を口にするのを聞いたことを、最後に付記しておきたい。

『な~るほど・ザ・台湾』第150記念号(撮影:梶山 憲一)

バナー写真=『な~るほど・ザ・台湾』創刊号(撮影:梶山 憲一)

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梶山 憲一KAJIYAMA Kenichi経歴・執筆一覧を見る

1953年大阪生まれ。78年早稲田大学社会科学部卒業。卒業後は編集者として、主に歴史や美術に関する書籍の企画・編集に携わる(『NHK故宮博物院』全15巻など)。89年より台湾について研究を重ね、台湾に関する記事を執筆。これらの記事で日本ライターズネットワーク大賞を受賞。92年、「台湾文化研究会」を創設、機関誌『ふぉるもさ』を創刊。2000年よりまどか出版編集長。03から06年まで月刊『な~るほど・ザ・台湾』編集長。06年秋から同誌顧問。『わがまま歩き台湾』(実業の日本社)、『SAPIO別冊:まるごと一冊台湾を行く』(小学館)など。英語からの翻訳に、メアリー・M.ロジャース著『目で見る世界の国々64:台湾』(国土社/共訳)、中国語からの翻訳に、阮美姝著『台湾二二八の真実』(まどか出版/共訳)などがある。

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