日本と台湾と月刊『な~るほど・ザ・台湾』の休刊

文化

台湾で発行の日本語によるフリーマガジン、月刊『な~るほど・ザ・台湾』(略称『なる台』)が今年の4月号で休刊となった。

『なる台』は、日本人の旅行者や在住者に向けて、観光やグルメ、ショッピングの他、ビジネス、社会、文化など、台湾に関する幅広い記事を掲載する情報誌だった。1987年4月の創刊で、以来30年以上の刊行である。

現地情報の発信で読者を獲得

創刊の年、台北にはまだ捷運(電車による市内交通網)はなく、台北101(101階ある台北のランドマークビル)ももちろん、インターネットもなかった。

旅行情報の主役はガイドブックだった。

そんな中、現地情報を発信する『なる台』は、旅行者や在住者の求めていた雑誌となったのである。

バブル経済を追い風に男性読者をターゲット

台湾旅行は、1970年代から人気があったともいえる。

戦後も64年に自由化された海外への観光旅行は、70年代に次第に盛んになっていく。近場の韓国や台湾は、注目の的だった。とはいっても、多いのは男性旅行者。韓国への旅行では、キーセン(妓生)と呼ばれる女性が接待に当たることになっていて、「キーセン旅行」の呼び名がうわさとなって広がった。これによる韓国の外貨獲得額に魅力を感じたものかどうか、やや遅れて台湾も日本人旅行者誘致に乗り出した。台湾は「男性天国」の異名で語られ、林森北路辺りでは、日本人客目当てのクラブなどが軒を並べることになった。

やがてバブル経済が膨らむ中で円高も進み、海外旅行への関心はさらに広がりを見せていく。

もちろん一般的な観光旅行者も少なくなかったが、こうした一面が大きな話題となった。

また、戦後、台湾の日本語世代によって開かれたともいえる日本と台湾とのビジネスや技術移転の道は次第に広がっていく。そして日本から台湾へ多くのビジネスマンが出張し、また駐在することにもなった。

こうした背景の中、月刊で発行される『なる台』は、飲食店など日本人客目当ての店の広告が多く、男性を読者対象にした内容になるのは必然だった。

「キザな男でも許されます」、そして「あなた、ダンディしてますか?」という時代がかったキャッチコピーは、創刊号に掲載された広告のものだ。

観光記事では台湾の魅力を熱っぽく語る。創刊号の夜市を紹介した記事は、こんな具合である。

「いま日本では、大都市の限られた盛り場をのぞいて、町並みは眠っている。……ところが…台湾の街は息づいている。脈打っている。……じっと座って町並みを見てるといい。ものの5分間とたたないうち、現代の日本が失ったものに気がつくはずだ。「思いやり」そして「活気」などに」(※「……」は中略を示す)

幅広く台湾を紹介した『なる台』

私が初めて台湾へ旅行したのは1990年3月のことだった。その前に在日台湾人や台湾からの留学生らと知り合う機会があり、彼らの育った背景を見てみたかった。

そして、現代日本が失ったかもしれない「思いやり」や「活気」に触れ、また複雑な文化の重なりに気付いて、がぜん、台湾への興味が高まったのだった。

帰国すると、自宅の近くに「日華資料センター」という名の、台湾の政府駐日機関が運営する図書館があることを知った。

「日華資料センター(のちに台湾資料センター/現在はすでに閉館)」で見つけたのが『なる台』だった。それ以降、旅行先の台湾でも機会があれば手に取る雑誌となり、90年代私は一読者として過ごすことになった。

この時代、台湾は李登輝総統の下、民主化とともに「台湾化」と「国際化」を進めているように見えた。

旅行者としての私は、例えば、立ち上げて間もない「台湾ペンクラブ」などの会合に野次馬として顔を出していた。台湾には「中華民国ペンクラブ」がある他に「台湾ペンクラブ」が結成されたのだ。私が見た「台湾化」の現れといえる。

観光地を巡らない旅行者の私が、幅広く台湾を観ようとしたとき台湾の書籍や新聞とともに、参考になったのも『なる台』だった。

90年代に入ってから、日本からの旅行者の関心は多様化していく。渡航者数も90年代の初めは年間60万人ほどだったが、終わり頃には90万人ほどに増えていた。そうして、「男性天国」といった台湾のイメージは次第に相対的に薄れ、「グルメ天国」などとも言われるようになっていた。『なる台』の記事も、台湾でのこうした変化を反映しようとしているようだった。

90年代の『な~るほど・ザ・台湾』(撮影:梶山 憲一)

駐在員の減少、スマホの普及が痛手に

2000年代に入って、陳水扁政権の時代となり、さらに「台湾化」が進む。例えば「中国石油」が「台湾石油」に改名されたように「中華」や「中国」を冠した国営事業の改名などが行われた。だが、こうした「去中国化」ともいわれる中華文化から脱却する動きの一方、台湾の企業家、投資家らは中国に多額の投資をし、台湾と中国との両岸関係は急激に緊密なものになっていく。

中国の経済成長は著しく、ふと気が付くと、台湾から日本企業の駐在員が減っていた。中国へと駐在員を移転した企業も少なくなかったのだ。

継続的な読者である駐在員の減少は、『なる台』にとって痛手だった。しかし、日本から台湾への渡航者は05年に100万人を超えてその後も増え続け、旅行客の多様化はさらに進んだ。

私は、そんな事態が進行するさなか、縁あって03年3月から『なる台』の編集長を務めることになった。

03年春といえば、重症急性呼吸器症候群(SARS)が台湾でも感染が広がった時期である。日本からの渡航者と広告の依頼が減るという厳しいスタートだったが、7月にはSARSも収束し、日本人の渡航者も回復し出した。

日本人の台湾への関心の多様化に対し、私はさまざまなタイプの記事を打ち出した。哈日杏子さんや片倉佳史さんら、執筆者も力のある人に記事を依頼した。読者からは面白くなったと言われたが、フリーマガジンの資金源である広告依頼は増えなかった。

06年9月に私は編集長を降りて同誌顧問となった。私の後は3人が編集長となり、先述の片倉さんや木下諄一さん、栖来ひかりさんら、台湾在住の文筆家の寄稿もあって、誌面はさらに充実していったが、財務的には好転しなかった。

インターネットの普及や、90年代から既に始まっていた世界的な出版不況の影響もあったように思う。

そうして10年以降のスマートフォン(スマホ)の普及が追い打ちをかけた。

台湾の街を往く旅行者は、片手にスマホを持ち、もはや『なる台』を持っていない。『なる台』の役割はさらに限定的となったようだった。

今回の休刊に当たり、30年余りにわたる日台関係の進展の中で見える『なる台』の姿をラフスケッチしてみた。フリーマガジンに過ぎないけれど、人びとの記憶に残る役割はあったと思う。

休刊が一般に発表されて以降の2週間ほど、少なくない読者が休刊を惜しむ言葉を口にするのを聞いたことを、最後に付記しておきたい。

『な~るほど・ザ・台湾』第150記念号(撮影:梶山 憲一)

バナー写真=『な~るほど・ザ・台湾』創刊号(撮影:梶山 憲一)

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