九份、このままではいけない

文化

ゴールドラッシュに沸いたかつての九份

私の一族は、九份のおかげで台湾の5大財閥の一つに数えられるほどになった。九份の街の成長とともに顔家も成長してきた。九份には、曽祖父の顔雲年の功績をたたえる碑や、祖父の顔欽賢の寄付で建設した「欽賢中学校」がある。私にとって九份は故郷に等しく、愛着もある。だからこそ、九份の行く末が心配なのだ。

欽賢中学校(撮影:一青 妙)

九份という地名は、一帯には家が9軒しかなく、物売りにいつも「9つ分」と頼んでいたことが由来だと言われている。その九份が観光地として賑(にぎ)わうようになったのは30年ほど前。台湾映画の巨匠・侯孝賢が、映画「悲情城市」のロケ地として選んだのがきっかけだ。「悲情城市」は2・28事件を初めて映画化し、世界で評価された。それまで静かだった街が、観光地への第1歩を踏み出した。

九份の繁栄は過去にもあった。日本統治時代に入り、九份の地に金が眠っていることに目を付けた明治期の関西財界の重鎮・藤田伝三郎が「藤田合名会社」をつくり、金鉱を採掘した。そして、顔雲年は、藤田組より九份一帯のほとんどの採掘権を受け継ぎ、「台陽礦業株式会社」を立ち上げ、金を掘り、金で財を成したというわけだ。

台陽礦業株式会社(撮影:一青 妙)

1917年、九份の金の産出量は最高となり、東アジア一の金鉱山として栄え、ゴールドラッシュで数万人の人々が移り住んだ。学校、映画館、商店、酒楼が次々とでき、その繁栄ぶりは「小香港」(リトルホンコン)と呼ばれた。

金鉱は70年代に入り閉山した。煌々(こうこう)とともっていたネオンは徐々に消え、九份は再び静閑な街に戻った。

幼いころ、父に連れられて九份に行ったことがある。山の中腹に会社の事務所があり、トロッコに積まれた石や砂利のようなものや、ショベルカーが置いてあった。少量だが、石炭の採掘を行っていた。父の作業用のヘルメットを欲しがり、かぶったらぶかぶかで前が見えなくなって怖くて泣いた。

周囲には、お土産を売っている商店など1軒もない。雨の多い九份で、雨漏り防止のためにコールタールで塗られた真っ黒な民家の屋根や壁が、日光を浴びて黒光りした様がもの寂しげで、印象的だった。

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