台湾を変えた日本人シリーズ:台湾の上下水道を整備した日本人・浜野弥四郎

文化

古川 勝三 【Profile】

台湾の「都市の医師」から「上下水道の父」となる

1919年に総督府を辞職するまでの23年間は、浜野と久米の苦労は並々ならぬものがあった。土匪の襲撃で治安が安定せず、2男2女のうち長女と長男を亡くした。水道視察を命じられ欧米に出掛けた約1年の間、久米は子供と共にひたすら家を守り続けた。このような不幸や苦難を乗り越えての水道事業であった。

浜野は主要都市の水道のほとんどを整備し「都市の医師」の役目を終えると、総督府を辞任し神戸市の技師長に就任した。浜野の帰国を知った八田は、浜野の胸像を造ることを友人や技術者に提案している。提案には多くの人たちが賛同し、山上水源地の庭に浜野の胸像を設置した。浜野が台湾を去って2年後のことである。胸像のレプリカと油絵が届けられると、浜野は届いた胸像を見て男泣きをしたという。

退職した浜野は東京に居を構えたが、1932年12月30日に没した。衛生工学に生涯をささげた63年間だった。山上水源地に建てられた銅像は、金属類供出令により44年に姿を消した。銅像が姿を消した台座には、「飲水思源」の石碑が建てられた。しかし、この石碑も台風により壊れ放置されていた。

水源地を訪ねた台南の実業家、許文龍はその姿を悲しみ胸像を寄贈、2005年5月16日に元の台座に再び設置した。山上浄水場および水源地は国定古跡に指定され、13年に浄水場の修復が終わり公開されている。現在は水源地設備の修復工事が進行中で、やがて整備が終わり、公開されるであろう。その時には、ぜひ訪問してほしい。「台湾上下水道の父」浜野が待っていてくれるはずだ。

台南市山上水源地の浜野弥四郎銅像(提供:古川 勝三)

バナー写真=山上水源地の送出ポンプ室(提供:古川 勝三)

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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