台湾を変えた日本人シリーズ:台湾の上下水道を整備した日本人・浜野弥四郎

文化

古川 勝三 【Profile】

台南に最新の上水道を設置し、烏山頭ダムの建設にも関わる

これ以降、1909年には打狗(高雄)が、11年には嘉義が、14年には台南上水道が着工された。台湾の都市上下水道建設は、1896年から始まり、1940年までに大小水道は計133カ所も建設された。これにより、台湾人口156万人分の水道水が提供できるようになり、風土病のまん延は克服された。「瘴癘(しょうれい)の地」と呼ばれた台湾は大きく変貌し、近代化への礎が築かれた。

特に台南上水道は、浜野の設計の集大成といえる画期的な施設であった。当時人口3万人の台南市に対し、10万人分の飲料水を送れる急速ろ過法を取り入れ、最新設備を備えた大規模浄水システムを造ったのである。水源は曽文渓で、取水塔から水をくみ上げた後、第1ポンプ井戸→取入ポンプ室→沈殿池→ろ過器室→第2ポンプ井戸→送出ポンプ室までを山上水源地で行い、続いて南側の浄水場に送られた水は浄水池にためられ、量水器室を通過して台南市内に送られることになっていた。

水源地の当時使用の送出ポンプ室(提供:古川 勝三)

水源地のポンプ室の屋内天井(提供:古川 勝三)

この工事は10年もの歳月をかけ、1922年に完工した。工事では後に烏山頭ダムを構築することになる技師の八田與一が浜野の部下として働いている。2人は水源調査で台南市や曽文渓周辺の調査をくまなく行い、水源地を山上の地に置くことを決めていた。この調査で、八田は曽文渓から台南にまたがる地形に精通し、水路の引き方や暗渠(あんきょ)、開渠(かいきょ)をはじめとする水利工事の工法など、多くの知識を浜野から実地に学んだ。これは、後に嘉南大圳の工事を設計する際に、大いに役に立ったはずである。この時の経験が、やがて15万ヘクタールの不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変える「嘉南大圳」を完成させることになる。

八田は、浜野から責任者とは、かくあるべきという生き様を学ぶと共に、技術的な技量や仕事に対する信念をも学んでいる。また浜野自身の人間性にも強く魅(ひ)かれていく。

「浜野技師は口数が少なく温厚で常に謙虚であり、恩師の功績を伝えることはあっても、自らの功績を言うような人ではなかった」と、後日、八田は語っている。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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