台湾を変えた日本人シリーズ:台湾の上下水道を整備した日本人・浜野弥四郎

文化

古川 勝三 【Profile】

台湾の上下水道の整備をバルトンと浜野に託す

ウイリアム・K・バルトン(提供:古川 勝三)

風土病の撲滅は台湾の近代化において不可欠なテーマだった。そこで台湾総督府は、この難問を克服する鍵は、上下水道の建設にあると考え、後藤に相談していた。後藤はバルトンに依頼した。

バルトンは「都市計画の根本は上下水道の改良にある」という信念の持ち主。東京をはじめ23都市の衛生状況調査を行い、上下水道建設案を作成した実績のある人物だ。私生活では日本酒を好み和服を愛する英国人で、荒川満津と結婚し、娘の多満をかわいがる日本びいきの技師であった。政府との7年間の契約を2年延長しすでに9年間が経過し、家族とともに英国へ帰国しようとした矢先のことだった。

バルトンは浜野を同伴することを条件に、台湾行きを了承した。浜野は大学でバルトンから衛生工学や写真術を学び、英語の得意な浜野が通訳もしていた。バルトンから絶大な信頼を得ていた浜野は、8月になるとバルトンに従って妻の久米と共に台湾に渡った。27歳のときである。9月3日には台湾総督府民生部の技師に任官した。官位は高等官六等であった。

和服で正座するバルトン(提供:古川 勝三)

バルトンと浜野は、着任早々に台北、大稻埕、艋舺など市街地の衛生および給排水状況を調査し終えると「この街はひどい。建設よりまず破壊から始める必要がある」と嘆いた。同年9月末には『衛生工事調査報告書』を提出している。

さらに、台湾内を北から南まで澎湖島を含めて精力的に歩き回り、マラリアや赤痢に苦しめられながら台湾上下水道計画の基礎を作り上げた。基隆の水源探しに没頭していた1898年に後藤が民政長官になって渡台した。心強い味方を得た2人は、基隆設計案を仕上げたが、休暇を取って日本に一時帰国したバルトンは、悪性の肝臓膿腫を発症し99年8月5日帝国大学附属病院で急逝した。43歳の若さだった。

台北の上下水道は東京や名古屋よりも早く建設された

恩師を失った大きな悲しみが浜野を襲った。悲しみの中で浜野は、台湾に残って恩師と共に作成した設計案を実現する道を選んだ。まず基隆の水道建設に取りかかった。基隆水道は暖暖の地を水源にして、取水した水を山の斜面を利用して沈殿池、ろ過池、浄水池へと導く省エネ設計を基に、02年に完工した。

浄水池からの清潔な水は、鉄道に沿って引いた水道管で基隆市市民に届けられた。自然の地形をうまく利用した基隆水道は、110年経過した今日でも現役で稼働している。2007年には、同浄水場が文化的景観に指定され、建設当時の「八角井楼」と「ポンプ室」は、歴史的建築物に登録されている。

1907年に欧米の水事情視察を約1年間行った浜野は、帰国すると台北水道工事に着手し、08年に、取水口・ポンプ室・諸設備を整備した。09年には配水管・浄水場および貯水池を完成させ、浄水場の完成とともに、1日2万トンの飲料水を12万人に供給した。この施設は台湾初の近代的上水道給水システムの先駆けとなった。特に、台北の鉄筋コンクリートの上下水道系統は、東京や名古屋よりも早く建設されており、この点からも当時の先人が、台湾の近代化にどれほど献身的であったかがうかがえる。この施設は70年近くにわたって清潔な水を台北市民に送り続けたが、1977年に惜しまれて閉鎖。93年には国家三級史跡に指定されると共に、修復され台湾最初の水道博物館に生まれ変わり、当時の姿を今に残している。

次ページ: 台南に最新の上水道を設置し、烏山頭ダムの建設にも関わる

この記事につけられたキーワード

台湾 上下水道

古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

このシリーズの他の記事