台湾を変えた日本人シリーズ:台湾の上下水道を整備した日本人・浜野弥四郎
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恩師バルトンと共に台湾に渡る
浜野弥四郎は、1869年9月9日に千葉県成田市で生まれた。90年第一高等中学校予科を卒業し本科に進んだ後、96年7月に帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。卒業式の翌日、恩師で帝国大学工科大学の衛生工学講師のウイリアム・K・バルトン先生に呼び出された。
「浜野君、僕と台湾に行って一緒に仕事をしてくれないか」
内務省衛生局長の後藤新平からも「台湾に上下水道を整備して風土病をなくしたい。この仕事を任せられるのは君しかいない」と懇願されたという。
95年、台湾と澎湖島を領有した日本政府が、風土病に苦しんでいることは聞いていた。74年の牡丹社事件から台湾平定までに死亡した日本兵はおよそ4800人いたが、戦闘による死者は162人で、残りの4642人は風土病のために死亡したという。当時の台湾は、人と家畜が-緒に暮らすような不衛生な状態だった。良質な井戸水は財閥や豪族が独占したため、多くの民衆は雨水か河川から飲料水を得ていた。当然、街の排水溝は汚染水があふれ、マラリア、コレラ、ペスト、アメーバ赤痢などの風土病がまん延していた。
そのため、平均寿命は30~40歳という低さで、内地では「瘴癘(しょうれい)の地」といわれ役人でさえ渡台をちゅうちょするありさまだった。事実、第3代総督の乃木希典は、風土病を恐れ家族同伴による渡台をためらったが、母親に「上の者が家族を連れて行かずに、部下に示しが付くか」と諭され、母親を同伴したところ総督の心配は現実となり、渡台後間もなくして母親がマラリアに冒され台湾で亡くなっている。
台湾の上下水道の整備をバルトンと浜野に託す
風土病の撲滅は台湾の近代化において不可欠なテーマだった。そこで台湾総督府は、この難問を克服する鍵は、上下水道の建設にあると考え、後藤に相談していた。後藤はバルトンに依頼した。
バルトンは「都市計画の根本は上下水道の改良にある」という信念の持ち主。東京をはじめ23都市の衛生状況調査を行い、上下水道建設案を作成した実績のある人物だ。私生活では日本酒を好み和服を愛する英国人で、荒川満津と結婚し、娘の多満をかわいがる日本びいきの技師であった。政府との7年間の契約を2年延長しすでに9年間が経過し、家族とともに英国へ帰国しようとした矢先のことだった。
バルトンは浜野を同伴することを条件に、台湾行きを了承した。浜野は大学でバルトンから衛生工学や写真術を学び、英語の得意な浜野が通訳もしていた。バルトンから絶大な信頼を得ていた浜野は、8月になるとバルトンに従って妻の久米と共に台湾に渡った。27歳のときである。9月3日には台湾総督府民生部の技師に任官した。官位は高等官六等であった。
バルトンと浜野は、着任早々に台北、大稻埕、艋舺など市街地の衛生および給排水状況を調査し終えると「この街はひどい。建設よりまず破壊から始める必要がある」と嘆いた。同年9月末には『衛生工事調査報告書』を提出している。
さらに、台湾内を北から南まで澎湖島を含めて精力的に歩き回り、マラリアや赤痢に苦しめられながら台湾上下水道計画の基礎を作り上げた。基隆の水源探しに没頭していた1898年に後藤が民政長官になって渡台した。心強い味方を得た2人は、基隆設計案を仕上げたが、休暇を取って日本に一時帰国したバルトンは、悪性の肝臓膿腫を発症し99年8月5日帝国大学附属病院で急逝した。43歳の若さだった。
台北の上下水道は東京や名古屋よりも早く建設された
恩師を失った大きな悲しみが浜野を襲った。悲しみの中で浜野は、台湾に残って恩師と共に作成した設計案を実現する道を選んだ。まず基隆の水道建設に取りかかった。基隆水道は暖暖の地を水源にして、取水した水を山の斜面を利用して沈殿池、ろ過池、浄水池へと導く省エネ設計を基に、02年に完工した。
浄水池からの清潔な水は、鉄道に沿って引いた水道管で基隆市市民に届けられた。自然の地形をうまく利用した基隆水道は、110年経過した今日でも現役で稼働している。2007年には、同浄水場が文化的景観に指定され、建設当時の「八角井楼」と「ポンプ室」は、歴史的建築物に登録されている。
1907年に欧米の水事情視察を約1年間行った浜野は、帰国すると台北水道工事に着手し、08年に、取水口・ポンプ室・諸設備を整備した。09年には配水管・浄水場および貯水池を完成させ、浄水場の完成とともに、1日2万トンの飲料水を12万人に供給した。この施設は台湾初の近代的上水道給水システムの先駆けとなった。特に、台北の鉄筋コンクリートの上下水道系統は、東京や名古屋よりも早く建設されており、この点からも当時の先人が、台湾の近代化にどれほど献身的であったかがうかがえる。この施設は70年近くにわたって清潔な水を台北市民に送り続けたが、1977年に惜しまれて閉鎖。93年には国家三級史跡に指定されると共に、修復され台湾最初の水道博物館に生まれ変わり、当時の姿を今に残している。
台南に最新の上水道を設置し、烏山頭ダムの建設にも関わる
これ以降、1909年には打狗(高雄)が、11年には嘉義が、14年には台南上水道が着工された。台湾の都市上下水道建設は、1896年から始まり、1940年までに大小水道は計133カ所も建設された。これにより、台湾人口156万人分の水道水が提供できるようになり、風土病のまん延は克服された。「瘴癘(しょうれい)の地」と呼ばれた台湾は大きく変貌し、近代化への礎が築かれた。
特に台南上水道は、浜野の設計の集大成といえる画期的な施設であった。当時人口3万人の台南市に対し、10万人分の飲料水を送れる急速ろ過法を取り入れ、最新設備を備えた大規模浄水システムを造ったのである。水源は曽文渓で、取水塔から水をくみ上げた後、第1ポンプ井戸→取入ポンプ室→沈殿池→ろ過器室→第2ポンプ井戸→送出ポンプ室までを山上水源地で行い、続いて南側の浄水場に送られた水は浄水池にためられ、量水器室を通過して台南市内に送られることになっていた。
この工事は10年もの歳月をかけ、1922年に完工した。工事では後に烏山頭ダムを構築することになる技師の八田與一が浜野の部下として働いている。2人は水源調査で台南市や曽文渓周辺の調査をくまなく行い、水源地を山上の地に置くことを決めていた。この調査で、八田は曽文渓から台南にまたがる地形に精通し、水路の引き方や暗渠(あんきょ)、開渠(かいきょ)をはじめとする水利工事の工法など、多くの知識を浜野から実地に学んだ。これは、後に嘉南大圳の工事を設計する際に、大いに役に立ったはずである。この時の経験が、やがて15万ヘクタールの不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変える「嘉南大圳」を完成させることになる。
八田は、浜野から責任者とは、かくあるべきという生き様を学ぶと共に、技術的な技量や仕事に対する信念をも学んでいる。また浜野自身の人間性にも強く魅(ひ)かれていく。
「浜野技師は口数が少なく温厚で常に謙虚であり、恩師の功績を伝えることはあっても、自らの功績を言うような人ではなかった」と、後日、八田は語っている。
台湾の「都市の医師」から「上下水道の父」となる
1919年に総督府を辞職するまでの23年間は、浜野と久米の苦労は並々ならぬものがあった。土匪の襲撃で治安が安定せず、2男2女のうち長女と長男を亡くした。水道視察を命じられ欧米に出掛けた約1年の間、久米は子供と共にひたすら家を守り続けた。このような不幸や苦難を乗り越えての水道事業であった。
浜野は主要都市の水道のほとんどを整備し「都市の医師」の役目を終えると、総督府を辞任し神戸市の技師長に就任した。浜野の帰国を知った八田は、浜野の胸像を造ることを友人や技術者に提案している。提案には多くの人たちが賛同し、山上水源地の庭に浜野の胸像を設置した。浜野が台湾を去って2年後のことである。胸像のレプリカと油絵が届けられると、浜野は届いた胸像を見て男泣きをしたという。
退職した浜野は東京に居を構えたが、1932年12月30日に没した。衛生工学に生涯をささげた63年間だった。山上水源地に建てられた銅像は、金属類供出令により44年に姿を消した。銅像が姿を消した台座には、「飲水思源」の石碑が建てられた。しかし、この石碑も台風により壊れ放置されていた。
水源地を訪ねた台南の実業家、許文龍はその姿を悲しみ胸像を寄贈、2005年5月16日に元の台座に再び設置した。山上浄水場および水源地は国定古跡に指定され、13年に浄水場の修復が終わり公開されている。現在は水源地設備の修復工事が進行中で、やがて整備が終わり、公開されるであろう。その時には、ぜひ訪問してほしい。「台湾上下水道の父」浜野が待っていてくれるはずだ。
バナー写真=山上水源地の送出ポンプ室(提供:古川 勝三)