台湾と沖縄の戦後秘史——大東島の嘉義サトウキビ農民の出稼ぎ体験を語り継ぐ

文化

南大東島サトウキビ収穫従事者の2人に1人は台湾人

南大東島は那覇市の東350キロ余りに位置する。北隣にある北大東などとともに、琉球列島の東側に孤立した形で浮かんでいる。島の総面積30ヘクタールの約6割が農地で、サトウキビ栽培が基幹産業である。製糖業は大正期に始まり、1918年に製糖工場が完成。アジア太平洋戦争では「爆撃と艦砲などの被害により、工場施設はそのほとんどが使用不能の状態となった」(「南大東村村誌」)。戦後、島の糖業が再興するのは50年で、この年の9月に大東製糖株式会社が設立された。

日本では、1950年代に高度経済成長が始まった影響で、労働力が地方から都市部に流出していくが、南大東島も例外ではない。サトウキビの収穫に必要な人手が不足したため、67年から台湾人の出稼ぎ労働を受け入れている。台湾との間で外交関係が断絶する72年までに延べ3371人が来島しており、この数字はサトウキビ収穫の従事者の2人に1人は台湾人だったことを意味する。

こうした労働者を送り出した地域の一つが大林鎮上林地区だ。邱教授によると、沖縄への出稼ぎを仲介する人物が同地区にいたことから、住民が知人や親せきと連れ立って南大東を目指すようになった。簡さんの話からも分かるように、仕事の内容は同じでも南大東でもらえる賃金は上林の数倍に上り、出稼ぎから台湾に戻ってきた人が土地を購入したり、家を建てたりするケースもあった。

台湾糖業の盛衰は農村にも影響を与える

上林地区が当時すでにサトウキビ栽培地帯だったことも沖縄行きのハードルを下げる結果になった。

大林で13年に操業をスタートさせた新高製糖嘉義工場は、日本統治が終わった後は接収されて操業が続く。簡さんももともとはサトウキビ農家だ。簡さんは「サトウキビの収穫量は台湾の方が圧倒的に多かったよ。製糖工場の要求も高くて、収穫したサトウキビは切りそろえて並べることになっていたし、草や葉など余計なものも、ちゃんと取り除かないといけなかった。南大東島ではそれほど要求はされなかったね。人手が不足していたから、やり方が粗かったのかもしれないね」と振り返る。

1996年に操業を終えた台湾糖業公司大林糖廠。現在はバイテク関連部門の施設になっている、1月16日、嘉義県大林鎮(撮影:松田 良孝)

サトウキビを畑から工場に運ぶための鉄道も敷設されていた。この経験があるため、簡さんは畑から工場までサトウキビを運び込む手はずを理解しており、南大東に着くとすぐに作業を始めることができた。

南大東島でサトウキビの運搬に使われたディーゼル機関車=2月23日、那覇市楚辺2丁目の壷川東公園(撮影:松田 良孝)

大林鎮の人口は71年の4万3625人をピークに減り続け、2016年には3万1379人となった。台湾の経済発展と都市化によって農村部から労働力が流出したことに加えて、人口減少の理由を孫さんは「製糖工場が閉鎖され、働く場所がない。若い人は農業をやりたがらないため」とみる。大林の製糖工場が操業を停止したのは96年のことである。

日本統治期から展開されてきた糖業の盛衰が台湾の農村に影響を与えており、孫さんは「上林地区の出稼ぎの歴史から、私たちは台湾の成り立ちを知ることができるのです」と話す。

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