台湾を変えた日本人シリーズ:台湾を「蓬萊米」の島にした日本人・末永仁

文化

古川 勝三 【Profile】

蓬萊米の代名詞「台中65号」の育種に成功

技師に昇進した末永が、1924年に台中農事試験場で内地種の「神力」を父に「亀冶」との交配を行い、良い結果を出していた。しかし、選抜し奨励するには検証が不十分で、研究を継続する必要があった。この交配種は優れた特性を持っていた。耐病性、広域性があり、一期作・二期作ともに適応すること、また施肥により収量が増え、倒伏しないまさに夢のような新品種であった。末永が場長になった27年には選抜を終え、65番目の圃場で作られたことから新品種を「台中65号」と命名した。その2年後には種もみも準備されて奨励を始め、農家への配布を実施した。新品種の登場を待ち望んでいた農民は、直ちに栽培を始めた。これまでにない特性の「台中65号」は多くの農民に喜ばれ、熱気は全島に広がる勢いをみせた。その結果「台中65号」を筆頭に蓬萊種の作付面積は、全耕地面積の6割を占め34年には75万トンもの蓬萊米が日本に移出された。台湾の米作農家は豊かになり、蓬萊米の出現は台湾農業を大きく変えた。同時に、台湾人の間でも日本料理が盛んに成り、食生活や生活様式への影響が顕著になった。現在台湾で栽培されている新品種の米には、全て「台中65号」の血を引き継いでおり蓬萊米の代名詞と言っても過言ではない。今や台湾における蓬萊種の作付面積は、98%に達し、戦前の生産額をはるかに上回っている。

「蓬萊米の母」の銅像

末永が台中農事試験場へ赴任してから20年の歳月がたっていた。場長になっても、朝5時に起き圃場を見回ってから朝食を取る習慣は変わらなかった。農民は、よく稲作の相談にやって来た。

35年ボルネオ島から稲作指導を依頼された末永は、サラワク王国のクチン市に出張した。ところが、翌年には結核に罹患(りかん)したため、やむなく帰台し自宅療養をしながら場長の仕事を続けていた。しかし、帰国して2年後の39年に圃場で倒れ、12月24日に帰らぬ人となった。53歳の若さだった。葬儀には末永を「蓬萊米の母」と慕う農民や知人が多く詰め掛け、供物の山が会場を埋めたという。葬儀から2年後には末永の功績を顕彰するための銅像が、有志の寄付により台中農事試験場の庭に建立され、李石樵作の肖像画が場長室に飾られた。41年10月17日のことだった。

台中農業試験場に建立された胸像。1944年に供出されて今はない(提供:古川 勝三)

バナー写真=台中農業試験場へ大島部長が視察した時の職員写真(前列中央大島部長、その左磯永吉 大島の右末永仁)(提供:古川 勝三)

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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