台湾を変えた日本人シリーズ:台湾を「蓬萊米」の島にした日本人・末永仁

文化

古川 勝三 【Profile】

日本種育成を可能にした「若苗」の育種と「理論」の完成

2人は1886年生まれで共に野球が大好きで、何よりも内地種米の品種改良に熱意があった。磯は頭脳明晰(めいせき)で社交的であり行政的、政治的手腕を持つのに対し、末永は努力家で温厚で堅実な人柄だった。研究においては、技手の末永が現場での実践面を、技師の磯が理論面を担当した。この両輪のごとき関係は、磯が転勤した後も終生続くことになる。

磯は純系分離選抜法によって優良な350品種を選抜した後、在来種と内地種の交配にも成功し、「嘉南2号」「嘉南8号」などの育種にも成功した。

一方、末永も1917年に画期的な「稲の老化防止法」を在来種で発見した。これは、密植せず小さく強健に育てた苗をこれまでより早い時期に本田へ移すという方法である。この簡単な方法が、それまで老熟苗を移植していた在来種の田植えの常識を大きく変えることになる。この年から磯は1年半に及ぶ欧米留学をするが、その間に末永は在来種と同様に内地種でも試した。その結果、20年には内地種でも成功したのである。これは、内地種を亜熱帯の地でも育てられることを証明する画期的な発見だった。しかし、なぜこの方法でうまく生育するのかという科学的根拠が得られず、公表しなかった。

留学を終えた磯は、総督府中央研究所技師として種芸科長に就任していた。当然、末永の内地種の育種成功に歓喜し、末永によって「若苗」と命名された内地種育成の科学的根拠を解明すべく、二人で難題に挑んだ。その結果、C/N比(炭素率)を用いて解明することに成功し「若苗理論」と名付けて21年に発表した。台湾における日本種の栽培法が確立し、稲作が大きな転換を迎えることになる。1899年に内地種栽培に失敗してから22年が経過していた。在来種の研究を終えていた総督府はこの快挙に沸いた。

内地種を総称して「蓬萊米」と命名

しかし、まだ安心はできなかった。内地種の種もみをどこで栽培するのか、難題が残っていた。この解決に尽力したのが宮城県仙台市出身の総督府殖産課に籍を置いていた東北帝大出身の平澤亀一郎(ひらさわ・きいちろう)である。平澤は火山でできた台北郊外の大屯山「竹子湖」に目を付けた。この地は海抜約600メートルで低湿度、多雨量、肥沃(ひよく)な土質に加え周りを山々に囲まれ、九州と気候が似ている上、在来種との自然交配や病虫害を防ぐのに最も適した試験田であると確信し、九州産「中村種」を植えて良い結果を出していた。1923年には台北州庁が「竹子湖原種田事務所」を設置し、内地種の種もみの大量生産に成功した。台北州の農家に奨励されたのを皮切りに、中村種や愛国種の種もみは、「竹子湖」から各地に配送され栽培面積が拡大し、収量が増えたことから日本内地でも高値で売買されるようになった。この状況を知った総督の伊澤多喜男(いさわ・たきお)は、26年5月に開催された「第19回大日本米穀大会」において台湾で栽培される内地種を総称して「蓬萊米」と命名した。ところが、6月に台湾特有のいもち病が「中村種」にまん延。そこで、嘉義農事試験支所にて選抜されていた「嘉義晩2号」が奨励され「中村種」に取って代わった。しかし「嘉義晩2号」は食味に問題があり市場価値が低いため、農民は新品種の出現を期待するようになる。

台中農業試験場の場長官舎にて家族と。末永クニ(前列左)、末永仁(前列右)(提供:古川 勝三)

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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