台湾を変えた日本人シリーズ:台湾を「蓬萊米」の島にした日本人・末永仁

文化

悲願、内地種米の栽培

台湾が清(しん)国から日本へと割譲され、一定の時間が経過して日本の台湾経営が軌道に乗った後、農業問題が一つの焦点になった。近代化によって人口が増えたため、食糧不足の解決が急務となっていたからだ。そのため政府は、温暖な台湾を食料の供給地にする計画でいた。台湾には17世紀頃に稲の栽培技術が伝わっていたため、台湾米として大陸で売買されていたが、粘りの少ないパサパサした食感のインディカ種だった。そのため日本人好みの粘りのあるジャポニカ種の栽培が急がれた。

そこで1899年、台北農事試験場で内地種10品種の試験栽培を行ったが、栽培法が確立してないためことごとく失敗した。総督府では在来種の研究を優先して実施することにし、1910年から赤米の除去や優良品種の選抜などを全島で開始した。この年に、一人の青年が台湾に渡ってきた。末永仁(すえなが・めぐむ)である。以後、末永は始まったばかりの米の品種改良に生涯をささげ、後に「蓬萊米の母」と呼ばれるようになる。

末永1886年3月15日に福岡県の旧筑紫郡大野村釜蓋(現在の大野城市大城)の4代目村長の長男として生まれた。1905年に大分県の三重農学校(現大分県立三重農業高校)を卒業すると、直ちに福岡県立農事試験場に就職した。23歳の時、長男が生まれて間もなく妻が病死した。農業技術者不足の問題を抱えていた台湾から、農学校の先輩が、就職話を持って来た。人生の再出発を考えていた末永は、長男を両親に預けて台湾に渡った。嘉義廳庶務課に就職し、技手として始まったばかりの稲の品種改良に取り組むことになる。

台中農事試験場・末永仁場長(提供:古川 勝三)

蓬萊米の発祥の地、台中農事試験場

末永は農学校で学んだ知識を基に品種改良に打ち込んだ。実直できちょうめんな性格を反映して、事細かな実践記録をノートに記し、1913年から始まった「技術員制作作品展覧会」に応募し、2年続けて一等賞に輝いた。15年10月には、台中庁の台中農事試験場に転勤になり、試験場農場主任となった。既に2月に赴任していた技師の磯永吉(いそ・えいきち)は、末永の着任を誰よりも喜んだ。博覧会に提出された335編の論文の中で、末永が「台湾での栽培には内地種が適しており、将来普及すべきもの」と結論付けている記述を記憶していた。磯も内地種の研究には台中が最も適していると思い、転勤希望を出していた。末永のような現場を任せられる人材が欲しかったのである。

次ページ: 日本種育成を可能にした「若苗」の育種と「理論」の完成

この記事につけられたキーワード

台湾

このシリーズの他の記事