新竹駅~開業105周年を迎えるターミナル建築

文化

大正期のターミナル建築

現在、この駅を眺めても、建物としてはそれほどの大きさではないことが分かる。むしろ、駅を出て少し離れた場所から振り返って見た方が、その壮麗さが伝わってくるかもしれない。

駅舎の内部も思いの外、小ぶりである。特に通勤通学客の多い朝夕の時間帯は手狭な感じが否めない。コンコースは人で溢(あふ)れ返っている印象だ。

しかし、人の流れはスムーズで、混乱した様子は感じられない。その理由は動線の管理にある。日本統治時代に設けられた台湾の駅舎は、多くが改札口を駅舎内に設け、出口を駅舎脇に設けている。これによって、駅に出入りする人に流れを与え、混雑を防ぐのである。つまり、駅舎を通るのはこれから列車に乗り込む人だけで、降車客は待合室を通らずに町へ出て行くのである。

また、便所が駅舎内に設けられていないことにも注目したい。これは衛生事情が芳しくなかった時代、病原菌のまん延を防ぐべく、便所を待合室の外に設けていたことによる。こういったスタイルは日本統治時代はもちろん、戦後にも受け継がれて現在に至る。

乗降客の動線管理についても、戦後に建てられた彰化駅、台東駅、花蓮駅などは改札口と出口が分かれている。戦前に持ち込まれたスタイルは、今も理にかなった造りとして評価されているのである。

構内には側線が多く設けられ、運行上の拠点でもあった。南方にあった扇形車庫は取り壊されてしまった。1930年時の構内配線図(陳朝強氏所蔵)。

文化財としての保存、そして復元

昭和時代を迎え、町の発展とともに駅の利用者は増えていったが、戦時中は米軍による空爆を受け、大きな被害が出た。特に1943年11月25日の空襲では新竹飛行場が狙われ、鉄道施設も大きな被害を受けた。

敗戦によって日本人が台湾を去ると、中華民国が台湾の統治者として君臨するようになる。台湾総督府鉄道部は廃止され、鉄道施設は中華民国政府の管轄下に入った。運営も交通部台湾鉄路管理局によって行われることになった。

戦時下、爆撃を受けた新竹駅は終戦間もない頃に修復工事が施された。これは最小限のものにとどまったが、かえって原形が保たれることとなった。工期は1年にも満たないものだった。

その後、何度かの改築計画が検討されたが、新竹駅のように、完工時の姿を保つ駅舎は少なく、その歴史的な価値が考慮され、1998年6月23日に文化財として保存されることとなった。現在、台湾では日本統治時代の駅舎や鉄道施設が産業遺産の扱いを受け、保存されるケースが少なくないが、新竹駅はその先駆けとなった存在である。

同時に、日本国内においても、大正期のターミナル建築が現役であることは極めて珍しい。そういった意味合いもあり、2015年にはJR東日本の東京駅丸の内駅舎と新竹駅との間で、姉妹駅関係が締結された。調印式は2月12日に行なわれ、大きな話題となった。

両駅は共に日本人が手掛けた大正期を代表する駅舎建築であり、完工時期も新竹駅が1913年3月31日、東京駅が14年12月20日と、ほぼ同時期となっている。さらに、東京駅の設計者である辰野金吾もまた、松ヶ崎と同様、造家学会(後の日本建築学会)の創設メンバーだった。

なお、新竹駅は戦後、何度か改装されていたが、歴史に忠実にあるべきということで、完工時の姿に戻す作業が実施された。戦後、正面には「新竹車站」(「車站」は「駅」の意味)という表示が据え付けられ、玄関の上部にはデジタル式の時計があった。さらに壁面も明るい色に塗り替えられていた。

これらは取り外され、壁面も日本統治時代の様子に戻された。明るい雰囲気だった駅舎は重厚さを強調した往時の風格を取り戻した。威厳を強調することが重視されたかつてのデザインがよみがえった。

保存対象となっているのは駅舎だけではない。駅舎につながるホームに設けられた雨よけ屋根も、古跡の扱いを受けている。これは使用済みの古レールを用いたもので、台湾ではいくつかの駅で見られるが、保存対象とされたのはここが最初だった。

人口40万を超える都市に発達した新竹。老駅舎は時代を問わず、街のシンボルとなってきた。いつの時代も人々の記憶の中にその姿を映していくことだろう。

台湾が誇るターミナル建築。完工以来、常に街のシンボルとなってきた。夜間はライトアップされ、美しさを増す(撮影:片倉 佳史)

バナー写真=新竹駅の様子。中央に時計塔を設けるスタイルはこの時代のターミナル建築によく見られたものである(撮影:片倉 佳史)

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