新竹駅~開業105周年を迎えるターミナル建築

文化

皇太子行啓と新竹駅

現在の駅舎が完工したのは1913年のことである。工事には5年の歳月が費やされ、3月31日に式典が催された。建坪は103.1坪(340.2平方メートル)。当初から台湾を代表する駅舎建築に挙げられていた。

当初、中央に銅葺(ぶ)きの塔が設けられ、大きな時計が据え付けられていた。これは公定時刻を市民に知らせるという意味を持ち、戦前のターミナル建築によく見られたものだった。現在は歴史建築として保存されている台中駅や、多くの人に惜しまれながら解体された基隆駅などにも中央に時計塔があった。個人で時計を持つことが少なかった時代特有のものである。

なお、23年4月19日には、大正天皇の摂政として皇太子(のちの昭和天皇)が台湾を行啓している。その際、特別客車「ホトク1」型客車に乗車した皇太子は、11時28分に新竹駅に降り立った。駅について語られた言葉などは残っていないが、この駅舎にどんな印象を抱いたのか、興味の尽きないところである。

皇太子の台湾行啓は全12日間の行程だった。新竹尋常高等小学校や新竹神社を訪れている(新元久氏所蔵)。

ドイツ建築を日本に伝えた建築士

駅舎の設計を担当したのは松ヶ崎萬長(まつがさき・つむなが)という人物である。松ヶ崎は明治期にドイツ建築を日本に紹介したことで知られ、台湾総督府鉄道部の嘱託技師として、台湾にやって来た。

松ヶ崎は1871年に13歳で岩倉具視の遣欧使節団に加わり、その後、ドイツのベルリン工科大学で建築学を修めている。帰国後は日本で最初にドイツ建築を紹介し、また、造家学会(のちの日本建築学会)の創設メンバーにもなった。近代日本の建築界の黎明(れいめい)期において重要な役割を果たした人物であることは間違いない。

松ヶ崎は台湾に到着後、台湾で最初の本格的ホテルとなる「台北鉄道ホテル」の設計に参画する。そして、基隆駅など、いくつかの建物を手掛けた。また、台北の都市計画にも関わりを持ち、商店建築なども手掛けている。

新竹の駅舎は直線を多用したドイツ風バロックと呼ばれるスタイルを踏襲し、質実剛健な雰囲気を醸し出している。特に直線で構成された屋根のラインが特色で、気品を漂わせながらも、毅然(きぜん)とした表情を持ち合わせたような印象である。

『台湾建築會誌』には興味深い記述がある。会が主催した座談会において、建築家たちは松ヶ崎を回想し、「台湾建築界の元老」と表現している。そして、純粋なドイツのスタイルを表現できる人物として敬意を表している。松ヶ崎は豪胆な性格で、酒をこよなく愛したと言われている。建築界の後輩たちに慕われる様子がうかがい知れる。

ちなみに、松ヶ崎が手掛けた物件の多くは現存しないが、新竹駅は栃木県にある元外務大臣・青木周蔵の那須別邸と並んで、往時の姿を保っている。そして、台湾においては現存する最古のターミナル建築となっている。

日本統治時代の新竹駅の様子。都市計画に従って整備された美しい家並みに壮麗な駅舎が映えたという。『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年』(祥伝社)より

次ページ: 大正期のターミナル建築

この記事につけられたキーワード

鉄道 台湾

このシリーズの他の記事