「台湾料理」は何料理?

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大岡 響子 【Profile】

日本人が出会った「台湾料理」

中央研究院の曾品滄氏によると、「台湾料理」という言葉は、日本が台湾を領有した翌年1896年に、日本人が日本料理と現地の料理を区別して呼称するために使い出した。つまり、台湾料理は、外部からやってきた日本人によって、「台湾料理」と名付けられたことにより勝手に線引きされ、突然一つのジャンルとして登場したのである。この頃から、日本人は「台湾料理」とはどういうものかをあれこれ書き記しながら、そのおいしさに魅了され続けてきた。

永島金平は、1912年に台湾総督府巡査練習生として台湾へと渡り、その後13年間を台湾で過ごした人物である。永島が日本へ戻ってから書いた『面白い台湾』(1925年)では、台湾料理が独特の表現で評されている。永島によれば、台湾料理は日本料理のように見た目を重視した体裁本位ではなく、まさに「食べる」料理なのだという。一つのテーブルを8人ほどで囲み、おのおの好きなものを突いて食べる形式は「共和政体」式で、おいしいものは早い者勝ちだから台湾人は競い合うように食べるため、話す暇がないほどだと少々大げさである。銘々膳ではなく、大勢でテーブルをぐるっと囲み、それぞれの箸やさじで直接食べ物を口に運ぶ様子は、日本人にとってはなじみのない食事風景だった。明治から大正にかけて27年間にわたり刊行された『風俗画報』(1907年)にも、こうした日台の食事風景の違いが報告されている。

台湾で出版された『台湾料理之栞』(1912年)の著者・林久三は、料理本の著者としては少し変わった経歴の人物である。林は、1895年に警察官として渡台し、後に台湾語の通訳者として活動した。『警察会話篇』『日台会話初歩』『台湾語発音心得』 などの日本人向け台湾語学習テキストも刊行している。著者が通訳者ということもあって、レシピには全て台湾語発音のルビがふられ、ちょっとした形容詞辞典まで付いている。この片仮名ルビが有用であったのかは置いておくとして、渡台した日本人女性が買い物をしたり、仕出屋に注文を出したりする際に便利なように、という著者の意図があった。登場する料理は、冬菜鴨、八宝鴨、八宝蟳羹など福建系の料理が中心で、鉄鍋一つでできる台湾料理は、西洋料理のように面倒でなく、衛生的で風味もよい!と大絶賛している。その他、日本本土で出版された『主婦之友』や『旅』などの雑誌にも台湾料理はたびたび登場し、福建式(閩菜)や広東式(奥菜)、四川式(川菜)などの系統があると紹介されている。

『旅』(1935年12月号)(提供:大岡 響子)

『主婦之友』(1956年11月号)(提供:大岡 響子)

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明治学院大学兼任講師。国際基督教大学アジア文化研究所研究員。専攻は文化人類学。植民地期台湾における日本語の習得と実践のあり方とともに、現在も続く日本語を用いての創作活動について関心を持つ。「植民地台湾の知識人が綴った日記」が『日記文化から近代日本を問う』(笠間書院、2017年)に収録されている。

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