歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

政治・外交

日本アジア航空が築いたもの

それでも、「日本航空」が台湾路線を飛ばさなかったという事態は「異常」なことであろう。中国に就航する欧州の航空会社の中には、日本アジア航空に倣い、台湾路線用に機体の塗装の変更、あるいは別会社運航の形で対応するケースが見られた。今でも、アムステルダム-台北線には「KLMアジア(荷蘭亞洲航空)」の機体が充当されることがあるが、これも日本アジア航空と同様のケースである。

大げさに思われるかもしれないが、日本の社会科の教科書にある「世界の国」リストを見ても「台湾」の名が記されていないことや、台湾路線用に日本「アジア」航空が作られ、飛んでいたことは、日台ハーフの筆者にとってやり場のない疎外感を抱かせた。ただ、日本アジア航空は中国への政治的配慮によって生み出された会社ではあったが、台湾路線を主に運行するということもあって、国交の切れた日台をつなぐ架け橋として果たしてきた貢献は極めて大きいといえる。

今でこそ台湾は若い女性に人気の旅行先であるが、半世紀近く前、日本人は台湾を「男性天国」というまなざしで見ていたと聞く。そのため、かつての台湾は日本人に人気の「観光地」ではなかった。そのような中1976年2月、日本アジア航空は台湾出身の歌手ジュディ・オングを起用し、「台湾ビューティフル-ツアー」と銘打った女性のみの台湾ツアーを企画した。これは女性需要の掘り起こしのスタートと位置付けられよう。以降も同社は台湾の観光をPRするCMを放映し、89年には「女性にやさしい台湾」とのキャッチフレーズが用いられた。98年からは俳優の金城武がバイクで台湾の街中を走り台湾のお茶とショウロンポウを頰張るCMが放送されていた。一連のCMによって、台湾へのイメージが向上したといっても過言ではない。

そして月日とともに日台航路にも変化が訪れる。2002年には中華航空およびエバー航空の成田空港使用は許可され、06年には中華航空が32年ぶりに大阪路線を復活させた。また、05年には中台間で直行チャーター便が運航された。こうなると、「日本アジア航空」の存在価値が揺らいでくる。08年3月31日、日本アジア航空は日本航空に吸収され、翌日より日本航空が台湾路線を「復活」させた。

日本アジア航空が幕を閉じて今年で10年。この10年の間に日台間の航空路は大きく変貌した。10年10月、それまで国内線専用空用として運用されてきた台北松山空港(1979年以前は国際線の発着空港)と東京国際空港を結ぶ定期便の就航や、15年10月には関西空港と台南を結ぶ定期便が就航したことは、日台間の航空路の盛況ぶりを物語っている。

たしかに、日本アジア航空は「特異」な存在であった。そうした中において、日台間の往来が今日に至るまで不自由なく保たれてきたことは、日本アジア航空があったからこその成果ともいえる。

バナー写真=日本アジア航空のボーイング747型機(千葉・成田空港)(時事)

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