歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

政治・外交

活況から「中断」、そして日本アジア航空の誕生へ

日本と中華民国の間で国交があり、日本の国営航空会社が台湾に就航していたことは、つまり中国への便を開設していないことを意味する。1972年9月30日、日本航空の特別便に乗った田中角栄首相は北京首都空港に降り立ち、周恩来の出迎えを受けた。その周の傍らには、日本統治時代の台湾に生まれ神戸で育ち51年に中国へと渡った林麗韞がいた。周と田中が握手を交わした場面は、長らく故郷と隔絶された状態にあった在日中国人に感動をもたらしたことであろう。しかし、それは後に台湾の航空会社が日本の空から、そして日本の航空会社が台湾の空からも消える淵源(えんげん)でもあった。

中国側は日本に対して日中航空協定締結の条件として、中台の航空機が日本の空港に並ばないこと、中華航空機が旗(中華民国国旗)を外すこと、日台間の航空協定の完全消滅の明確化などいくつかの「提案」を行っていたからである。また、日台間の航空路線の維持については条件付きで認める表明をした。

中国の提案を受け、日本の外務省ならびに運輸省(現在の国土交通省)は、①台湾には日本航空が就航しない②中華航空の大阪(伊丹)便の他空港移転③中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。成田空港開港前は両航空機の時間帯調整を行う④中華航空という社名と旗の性格に関する日本政府の認識は改めて明らかにする、などの案を自民党総務会に提出し、了承された。

こうして74年4月20日に北京で日中航空協定が締結された。同時に大平正芳外相は「日本政府は、台湾機にある標識をいわゆる国旗を示すものと認めていない。中華航空が国家を代表する航空会社であるとは認めていない」との談話を発表した。そのため、台湾の沈昌煥外交部長は直ちに日台間航空路の停止を発表し、翌日の便を最後に日本航空と中華航空は日台路線から撤退した。台湾との往来が必要な在日台湾人にとっては、戦後直後に次ぐ居住国と故国を結ぶ航路中断の記憶といえよう。

日台間の移動には、日本を寄港地とする大韓航空など第三国の航空会社による直行便、あるいは香港を経由するしか方法がなくなり、深刻な供給不足に陥った。ところが75年7月に宮沢喜一外相が「(台湾と国交を有する)それらの国々が青天白日旗を国旗として認識している事実をわが国は否定しない」といった答弁を行ったことで、日台の航空会社による航路の再開に向けて事態が動き出した。そして、75年8月に日本航空の子会社として「日本アジア航空」が設立され、同年9月15日に東京―台北線、翌年7月26日に大阪―台北線が開設された。一方の中華航空は75年10月1日に台北-東京線および東京経由米国行きの便を再開させるも、大阪線は再開されなかった。

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