歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

政治・外交

航空機の台頭とにぎわう日台空路

船から飛行機へと取って代わられたことも、戦後日台航路の大きな特徴である。

1950年代に入ると、ボーイング707旅客機(57年初飛行)、ダグラスDC8(58年初飛行)そしてコンベア880(59年初飛行)など4発ジェット旅客機の開発が相次いだ。コンベア880は60年にかけて、台湾の民航空運公司(CAT)や日本航空さらには香港のキャセイパシフィック航空などが導入し、日台航空路にも充当された。

CATは50年代に台湾内外の航空路線を提供した航空会社としても知られ、50年4月には台北と東京を結ぶ路線を開設した。その運航資金にはアメリカの中央情報局(CIA)からの援助があり、CATは朝鮮戦争時に国連軍の物資輸送を担うなど、民間航空会社以上の活躍をした。

67年に中華航空が台北―大阪―東京に初便を就航させた。以降、CATに代わる台湾のナショナルフラッグとして中華航空が活躍することとなった。一方、日本航空は51年に成立し、台湾路線は59年7月30日に開設された。

大阪万博の開催された70年は、日本航空が大型のボーイング747型機を導入した年でもある。この時点で、日本航空と中華航空は日台間航空路において5割近くのシェアを有し、日本航空の国際線としてはホノルル線に次ぐ稼ぎ頭となっていた。そんな日台間航空路が活況を示していた頃、台湾(中華民国)を取り巻く国際環境は急変する。71年の中華民国の国連脱退、そして翌年の日本との断交である。

次ページ: 活況から「中断」、そして日本アジア航空の誕生へ

この記事につけられたキーワード

中国 台湾 航空

このシリーズの他の記事