歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

政治・外交

「国内」航路から「国際」航路へ

1895年に日本が台湾を領有すると、その翌年には船による日台定期航路が開設された。大阪商船や日本郵船の大型船が神戸と基隆を結び、神戸は台湾人が日本に渡る際にまず踏み入れる玄関口であった。日本で著名な台湾人小説家陳舜臣の一家も神戸の地に上陸して根を下ろし、「真珠王」として知られる台南出身の鄭旺(田崎真珠の田崎俊作を育てたことでも知られる)も戦中から戦後にかけて神戸の地で活躍した。27年に台湾共産党を立ち上げた謝雪紅は、19年から3年ほど神戸にいたという。

戦前の一時期、大日本航空などが日台間で航空路を築いていたようだが、費用面や定員は船には遠く及ばなかった。いずれにせよ、日台航路は今日の在日台湾人を生み出すポンプとなっていた。44年に入ると、日本の戦局は次第に悪化し、日台航路の船が米軍によって撃沈されるという事態が相次ぐ。日本の敗戦が決定した45年8月時点において、日台間の航路は事実上の消滅状態となっており、航路の「中断」は45年12月に在日台湾人の帰国希望者の送還が始まるまで続いた。

また第二次世界大戦の終了から5年の間に、大陸では中華人民共和国が成立し、それまで大陸を統治していた中華民国は台湾に逃れた。朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発し、南北分断が固定化されるなど、東アジアの情勢も急激に変化した。日本は連合国軍総司令部(GHQ)統治下にあって主権の回復はしておらず、また航空禁止令が敷かれていたため日本で自前の航空会社を持つことや航空機の製造などが認められなかった。

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