映画の縁、人の縁~台湾を撮り続けて

文化 Cinema

函館で出会った映画人の影響から、映画製作の世界に入る

映画で台湾を伝えようと思うようになったのは、函館で出会った映画人たちの影響だった。現在の函館港イルミナシオン映画祭の前身となる映画祭が毎年行われており、取材を通して映画祭に集う監督やプロデューサーの話を聞くうち、映画が見るだけのものから作る対象へと変わっていった。映画に挑戦したいという気持ちが日増しに強くなった。

2000年春、30歳で新聞社を辞めて映画の世界に入った。その年の夏、函館の映画祭主催のワークショップでドキュメンタリー映画の小林茂監督と出会ったのを機に、重症心身障害児(者)施設を追った『わたしの季節』(04年)に取材スタッフとして参加することになった。02年、この現場で撮影助手だった松根広隆氏と出会う。彼は日本映画学校の卒業制作作品でいきなり劇場デビューした大先輩なのだが、同い年の気安さもあり、「将来、台湾を撮るから、そのときはよろしく」と声を掛けた。その5年後、『台湾人生』の撮影で台湾を一緒に走り回っていた。以後、最新作『台湾萬歳』まで全ての作品で撮影してくれている。

映画の宣伝や撮影現場の仕事が一つ終わる度に台湾へ飛んだ。週末や旧正月などの連休のときは電車の座席が全く取れない。駅の窓口で「無座」と書かれた切符を渡されてがっかり。初めのうちはスーツケースや床に敷いた新聞紙に座ったが、車窓を流れる濃い緑や青い空、白い雲たちが気分をなごませてくれた。そのうち、空いている席に滑り込むすべを身に付けた。そうやって台湾を何周しただろう。下車して駅前のお店に入っていく。「日本語を話せる人いませんか?」と日本語で尋ねると、本人は話せなくても、必ず家族や近所に日本語を話すお年寄りがいて、そういう人を引っ張ってきてくれた。

取材中に癒やされた車窓の風景、2008年(撮影:酒井 充子)

取材を始めたころ、あるお宅にお邪魔したら、いきなり「ごはん食べましたか?」と聞かれ、反射的に「いえ、まだです」と答えてしまった。結果、おいしい手作りの水ギョーザをごちそうになることに。赤面。台湾初心者の皆さま、「ごはん食べましたか?」は台湾語で「ジャパーボエ」、通常「お元気ですか?」というあいさつの意味で使われます。ただのあいさつなので、くれぐれも「まだです」などとやぼな返事はなさらぬようお気を付けください。

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