台湾総督府庁舎(現・総統府)の建築秘話

文化

デザインは日本初のコンペで決まった

庁舎は権威を強調したデザインが求められた。当時、東アジアへの進出をうかがっていた欧米列強に対し、新興国の日本はいかにして国力を誇示するかという命題と向かい合っていた。そして、総督府はあえて西洋古典様式を採用した。つまり、欧米のスタイルを踏襲しつつ、その中で自らの国威を誇示するという手法を選んだのである。

デザインは民政長官・後藤新平の発案で、公募という形が採られた。この「台湾総督府庁舎設計競技」は、日本で最初の公開制設計コンペだった。概要は1907年5月27日に公布され、審査官には辰野金吾、中村達太郎、塚本靖、妻木頼黄(よりなか)、野村一郎、長尾半平、伊東忠太といった建築界・土木界の重鎮が名を連ねていた。

審査は2段階で、まずは外観などの基本デザイン、続いて、細部にわたる審査が行われた。1次審査では応募者28人中、7人名が入選し、長野宇平治の案が1等となった。

長野宇平治が提出した設計案(加藤拓立氏所蔵)

長野は明治期における建築界の旗手だった。西洋建築をその理論や精神にまで立ち返ることで極めていった人物とされる。日本銀行の技師として、日銀本店の増築の他、日銀小樽支店や広島支店、岡山支店、旧北海道銀行本店などを手掛けている。銀行建築以外には、奈良県庁や横浜の大倉山記念館(大倉精神文化研究所)などの作品がある。

しかし、09年4月22日の官報によると、最終結果は最優秀案の甲賞の該当者はなく、長野の作品は乙賞にとどまった(丙賞は片岡安の案)。長野はこの時、順位は該当作品の中で決めるべきで、賞金最多額の甲賞に該当無しとは不自然だと異議を申し立てている。しかし、抗議は受け入れられなかった。

さらに、台湾総督府からは統治機関としての威厳をより強調することが要求された。そして、長野の案には同じく辰野門下の野村一郎と森山松之助が手を加えた。この時、6階程度だった中央塔は9階(最頂部は11階に相当)に引き上げられ、デザインは確定した。

長野はこの前後、台湾総督府の嘱託技師となっているが、その後は台湾と関わることはなかった。一方、森山は総督府庁舎の設計を機に、台湾建築界の重鎮となっていった。やや後味の悪い設計コンペであった。

長野宇平治の墓地は郷里の新潟県上越市の長遠寺にある(撮影:片倉 佳史)

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