台湾を変えた日本人シリーズ:台湾先住民研究の先駆者・鳥居龍蔵

文化

4度の台湾調査

1回目の調査は1896年8月に始まった。台湾の基隆に上陸した鳥居は、5カ月間にわたり東海岸を調査した。この調査が特に大きな意味を持つのは、スケッチが主流だった野外調査に、日本人として初めてカメラを取り入れたことである。しかし、当時は誰もがカメラを使えたわけではなく、鳥居も調査に出発する前にかなり撮影を勉強し、練習を重ねた。しかも、暗箱式のカメラ自体は重くかさばる上に、フィルムの役目をするガラス乾板は、1枚がおよそ80グラムもあり一度に500枚近いガラス乾板を持参するため、40キログラム超える重さになり、持ち運ぶのに大変な苦労をする代物である。

調査中の鳥居龍蔵(提供:古川 勝三)

海の玄関口、基隆に到着した鳥居は、まず台北に向かい樺山初代総督に面談し、その後圓山貝塚の調査を行った。それから基隆に戻り、船で南に向かい艀(はしけ)を使って花蓮に上陸した。ここで食料などを調達して陸路を富田→瑞穂→玉里→池上→台東と南下しつつアミ族、プユマ族、ブヌン族の民族調査を行った。

北に引き返す途中、タロコではタイヤル族の言語や生活様式、習慣などを克明に記録した。調査を終えた鳥居は、花蓮から基隆に戻り帰国の途に就いた。12月までの調査で4部族の区分作成の成果を残している。この調査結果は台湾総督府に報告され、貴重な情報として活用された。

2回目の台湾調査は1897年10月から3カ月間実施された。6月に東京帝大理科大学助手を拝命した鳥居は、新聞公募に応じた中島藤太郎を伴って出発した。第2次調査の目的は、主に台湾東南海上の孤島、紅頭嶼に住む海洋民族のヤミ族の民族調査を行うことであった。基隆に着いた後、台北に向かい圓山貝塚・淡水渓沿岸や八芝蘭の石器時代遺跡の発掘調査をした後、基隆から船を利用して一気に紅頭嶼に向かい上陸している。70日間の調査活動でヤミ族の衣装や家屋、タタラ舟によるトビウオ漁、水芋栽培などの貴重で克明な調査記録を持ち帰った。

3回目の台湾調査は98年10月から12月まで滞在し、知本渓以南の南部を中心に民族調査を実施することにしていた。船で車城に上陸した後、恒春から牡丹社に入りパイワン族を調査し、楓港から枋寮、丹路まで足を伸ばしてルカイ族について貴重な記録を取った後、台東に出て緑島に渡り調査してから帰国した。

4回目の台湾調査は2年後の1900年に行っている。鳥居30歳のときである。原住民族の言葉に詳しい森丑之助を助手に加え1月に日本を出発し、10月までの長期間滞在した。基隆に到着した後、台北に行き総督府で調査活動計画を打ち合わせた後、澎湖島に行き馬公に上陸した。

馬公からは台南→高雄→東港と船で移動した。東港に上陸後は陸路で枋寮→水底寮→潮州→来義と進み、ここではパイワン族を再調査し屏東→ロ社→旗山→松林→六亀→台南と回り嘉義ではツオウ族を調べた。ここで8人の先住民を雇い嘉義弁務所の池畑要之進氏を加えた11人で東埔→集集→竹山→雲林→北斗→彰化→台中→東勢→台中→南投→集集→埔里→眉渓→埔里→東埔とめまぐるしく移動している。

台湾にはマラリア、アメーバ赤痢、チフス、コレラといった風土病があった。しかも3000メートルを越える山が164座もある峻険(しゅんけん)な山地があり、そこで暮らす先住民は文字を持たず、しかも写真というものを知らない。その上、成人になった証しとして首狩りを行う習慣まである人々の生活を調査するのは、相当な困難と恐怖を伴ったはずである。実際この調査中のポカリ社では200以上の頭骨が並ぶ首棚を見ている。

4月には血気に任せて3952メートルの新高山(玉山)の登頂を決行し、台湾最高峰の登頂に日本人として最初に成功している。若いとはいえその行動力には脱帽せざるを得ない。登頂成功の後、玉里に降り一気に花蓮まで北上して花蓮から蘇澳→羅東→宜蘭を経て基隆から帰国している。鳥居はこの4回までの調査結果から高地に住む台湾先住民をタイヤル族、ツオウ族、ブヌン族、サウ族、ツアセリン族、パイワン族、ピウマ族、アミ族、ヤミ族の9部族に分類した。これらの調査で全ての部族の身体、言語、生活文化を調査し、貴重な記録を私たちに残してくれている。こうした苦労の結晶として、824枚の台湾の写真が現存しており今日、19世紀末の台湾の様子を知る上で貴重な資料となっている。

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