台湾美術の「恩人」石川欽一郎の絵が90年ぶりに「奇跡の発見」

文化

戦後、絵画好きの医師が『河畔』を所蔵

石川は台湾で最初の大規模な美術展で、1927年に最初に開かれた「台湾美術展覧会(台展)」の主要な担い手の一人として準備に奔走した。その際、自らも油絵で作品を出した。それが『河畔』である。水彩画を得意とした石川には珍しい油絵で、石川の作品で現存する油絵は極めて少ない。

淡水河の夕暮れを描いた石川の『河畔』が美術史家の間でよく知られているのは、台展のカタログに載っていることに加えて、当時の台湾の日本語新聞「台湾日日新報」が展覧会前に石川を取材し、キャンパスに立てかけられている完成した『河畔』と一緒に映った石川の姿を報じたからである。

「台湾日日新報」が報じた『河畔』と石川欽一郎、「近代日本洋画大展」、台湾台北(撮影:野嶋 剛)

『河畔』はその後、石川の帰国の際に日本に持ち帰っておらず、友人などに贈られたとみられるが、そのまま行方不明となってしまった。

誰もが諦めかけていた中で、台北教育大学の美術館で現在行われている「近代日本近代洋画大展」の準備に奔走していた元台北故宮院長で美術館館長の林曼麗の元に1本の連絡が入った。旧知の画廊の経営者からだった。

「石川の『河畔』が見つかりましたよ」

信じられないような知らせに、早速、林曼麗は、台湾大学教授で『水彩.紫瀾.石川欽一郎』の著書でもある顏娟英を伴って、この画廊経営者に会いに行った。鑑定の結果は、間違いなく消えた『河畔』そのものだった。

その後、判明した『河畔』の来歴は、こういうものだ。

「河畔」は、日本敗戦と国民政府の台湾接収という激動期の台湾で、ガラクタ市に流れて、二束三文で売られていた。そのとき、台北在住の周という若い医師が、たまたま「河畔」を見つけて買い取った。絵が好きだった周医師は、石川というサインがあったので、石川の作品であることを分かって買ったようだ。購入後は、自らが経営する医院の壁に掛けて、仕事の合間に眺めては楽しんでいたという。周医師は、家族に対して「これは有名な日本人の画家の作品だ」と話していたという。

周医師が亡くなったのが2005年。その後、医院は閉められていたが、周の娘がたまたま書店で顔教授の『水彩.紫瀾.石川欽一郎』を手に取ったところ、例の台湾日日新報の記事のコピーが載ったページが目に留まった。

周の娘は、自分の家にある絵とよく似ていることから、知り合いの画廊に連絡を取り、林曼麗の所に知らせが届いたというわけだ。

林曼麗にとっては、全てがあまりに「出来過ぎた偶然」であるように思えた。なぜなら、自分が先頭に立って3年前から進めてきた展覧会は「日本の近代絵画」をテーマにして、「官展」「在野」「水彩画」を3つの大きなセッションとしており、その「水彩画」パートの目玉として石川を含めた多くの明治時代の日本人画家の作品を集めようとしていたときだったからだ。

水彩画は、世界の芸術の流れからすれば、決して洋画のように華やかなものとはいえない。しかし、日本や台湾のような島国の移ろいやすい微妙な四季の変化が豊かな風土の景色を描くには非常にフィットする画法である。

林曼麗は感動を込めて、こう語る。

林曼麗さん(撮影:野嶋 剛)

「水彩画は英国で発展したのですが、英国も島国であり、日本も台湾も島国で、島国の風景を描くことに向いています。石川とその教え子たちが残した台湾の景色を描いた水彩画は、今日に当時の台湾の様子を伝える良質な資料となっています。石川の展示を企画しているこのタイミングで、90年ぶりに作品が見つかるというのは、本当に奇跡的なことで、石川が魂を込めて描いた作品が、自ら望んでこの発見に導いてくれたとしか思えません」

台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染(なじ)んだ台湾の人々にとって新鮮だった。

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