台湾美術の「恩人」石川欽一郎の絵が90年ぶりに「奇跡の発見」

文化

野嶋 剛 【Profile】

台湾で開催中の「近代日本洋画展」で石川欽一郎の『河畔』が90年ぶりに登場

優れた芸術品には生命が宿る、と言われる。このほど台湾で起きた日本人画家・石川欽一郎の『河畔』の「90年ぶり」という奇跡的な発見は、改めて「芸術品に宿る生命」の存在を信じさせるような出来事だった。台湾を深く愛し、台湾で多くの画家を育てた石川の遺作が、いま台北で開催中の「近代日本洋画大展」で、長い時空を超えて、われわれの眼前によみがえった。

石川は1871年静岡県出身の西洋画家で、英国の水彩画を独学で学んだ。2度にわたって台湾で絵画を教え、台湾に西洋画を初めて紹介し、多くの弟子を育成したことで台湾美術への恩人とされている。

蔡家丘「日本水彩畫與台灣日治時期水彩畫的興盛」や、nippon.comのコラムニスト、黒羽夏彦「李澤藩と石川欽一郎」によると、石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入った。独学で水彩画を学び、英語が得意だったので、陸軍参謀本部の通訳官となって1907年に台湾へ赴任した。

石川欽一郎(提供:野嶋 剛)

石川は1907~16年の間に兼務の形で台北中学校や国語学校で美術を教えた。さらに1924~32年には、台北師範学校(国語学校が前身、後の台北教育大学)で美術教師を務め、計17年間も台湾で過ごすことになる。

この間に育てた弟子からは、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎など、後に台湾美術界で地位を築いた人材となった者は枚挙にいとまがない。石川は日本人と分け隔てなく台湾人と接したので、台湾人の生徒からは特に慕われた。教官に義務付けられていた官服は着用せず、背広にちょうネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。

石川の教えを受けた若者たちの中からは、日本に渡り、東京美術学校(現代の東京芸術大学)などでさらに高いレベルの教育を受け、日本の帝展などに入選して、一流の画家への道を登った者も少なくない。一方で、台湾人の教員養成を目的にした師範学校であったため、多くの台湾人の教え子が教師となり、石川から教わった西洋画をさらに台湾社会の末端にまで伝えていった。

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ジャーナリスト。大東文化大学教授。1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。在学中に、香港中文大学、台湾師範大学に留学する。92年、朝日新聞社入社。入社後は、中国アモイ大学に留学。シンガポール支局長、台北支局長、国際編集部次長などを歴任。「朝日新聞中文網」立ち上げ人兼元編集長。2016年4月からフリーに。現代中華圏に関する政治や文化に関する報道だけでなく、歴史問題での徹底した取材で知られる。著書に『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店)、『台湾とは何か』(ちくま新書)、『故宮物語』(勉誠出版)、『台湾はなぜ新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)『香港とは何か』(ちくま新書)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団の真相』(ちくま文庫)『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)など。オフィシャルウェブサイト:野嶋 剛

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