「台湾バナナ」が描き出す日本と台湾のフルーツ産業史

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台湾バナナの栄枯盛衰

このように戦後の台湾経済が成長した一翼を担ってきたバナナ産業の基礎が築かれたのは、1895~1945年に至る日本統治期だ。

台湾バナナの代表品種である「北蕉」は、18世紀前半に福建地方の移民が持ち込んだもので、1910年代から集集を中心に初めて大量生産されるようになった。この時期には、「北蕉」より病気に強い品種も発見され、「仙人蕉」と名付けられた。集集で集荷されたバナナは21年に開通した鉄道でヒノキなどと共に基隆港へ運ばれ、貨物船で日本へ送られていった。収穫期には深夜にも貨物列車の汽笛が鳴り響いていたという。

この鉄道は元々、水力発電所の建設資材を運ぶために敷設されたもので、今もなおローカル線「集集支線」として観光客や地元住民に愛用されている。

集集は台湾最大の河川、濁水溪の上流域にある美しい山あいの町だ。筆者が訪れた際に泊まった「農村老爺民宿」のオーナー・劉青松さんは郷土史家でもあり、日本統治期の写真を数多く収蔵している。学校の校庭ほどもある集荷場で、100人を優に超える編みがさをかぶった人々が、てんびん棒でバナナを運んで地面に山と積まれたバナナを点検している写真や、バナナを詰め込んだ無数の竹かごが列車に積み込まれるのを待っている写真などを見せていただいた。

日本統治時代の集集バナナ集荷場(提供:劉青松)

劉さんは言う。「集集のバナナは標高約280メートルの斜面で栽培していて、平地より気温が低いのと土壌の水気が少ないために、小ぶりだけれど甘みが詰まっています。天皇陛下に献上されたこともありますよ」

劉さんは今、集集のシンボルであるヒノキ造りの駅舎の斜向かいの古民家で「火車頭集集鉄道故事館」の開設に取り組んでいる。往年の写真を通じて集集の歴史を紹介するコーナーや地元食材を使った軽食の提供、木製絵はがきのDIY教室や木芸品の販売などが計画されていて、オープンすれば地域の新しい観光スポットになりそうだ。

一方、南部の旗山でも1909年に製糖工場が開設されたことから、サトウキビや砂糖の運搬のため「五分車」と呼ばれる軽便鉄道が高雄まで開通していた。バナナの栽培が本格化してからは、輸送にも用いられるようになった。今はもう列車が走っていないが、13年に建てられた和洋折衷のクラシックな駅舎は保存され、旗山老街と呼ばれる昭和初期に造られたバロック式建築の商店街と共に町のシンボルとなっている。

旗山で収穫されたバナナは高雄港経由で日本へ輸出された。埠頭(ふとう)では重さ48キロの竹かごを担いで運搬する苦力(クーリー)と呼ばれる労働者たちがあくせく働いていた。苦力はオランダ東インド会社が今日の台南に城と町を築いた17世紀初頭から20世紀に至るまで、台湾の発展を最も深いところから支えてきた存在だ。「香蕉碼頭」(バナナ埠頭)と名付けられた埠頭はMRT西子湾駅から徒歩5分ほどの所にある。

ここには「香蕉故事館」(バナナの物語館)というバナナ産業の歴史を伝える施設もある。ところが筆者が今回取材のため数年ぶりに訪れたところ、スペースのおよそ3分の2がテレサ・テン音楽館という名前に変わっていた。しかもテレサ・テン関連の資料は申し訳程度で、大部分が中国風のつぼやら置物やらアクセサリーやらの販売品で占められていた。歴史資料の展示だけでは収益に結び付かないのも想像できるが、ならばバナナを使ったお菓子なりバナナをモチーフにしたグッズなりをいくつも創作して、観光客を引きつける方向に努力すべきではないかと思う。

「バナナ王国」台湾のバナナ産業は1960年代まで飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、70年前後からフィリピン産バナナの台頭、黄葉病の流行、権力闘争などの悪要素が重なり急速に下火になっていった。それはまるで地面に落ちているバナナの皮に足を滑らせて転んでしまう、古い漫画のワンシーンのような「青天のへきれき」の出来事だった。今日、日本に流通しているバナナのうち台湾産はわずか1%に過ぎないが、品質はお墨付き。ねっとりとした濃厚な食感や香りの強さが特徴の台湾バナナを、もしスーパーなどで見かけたら、ぜひ味わってほしい。

バナー写真=台南のフルーツショップ「莉莉水果店」、台湾台南(撮影:大洞 敦史)

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