「祖国」はどこか? ——台湾・中国・香港で異なるアイデンティーのコンテクスト

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林泉忠 【Profile】

戦後の台湾における「祖国化」運動と「中国人」アイデンティティーの構築

戦後初期の「祖国化文化運動」には、二大形態があり、台湾社会の国民アイデンティティーの再構築に大きな影響を与えた。

第1に、台湾社会で「中国国家権力文化」が確立されたことがある。これは新国家と新政権の正当性のシンボルでもあった。具体的には「青天白日満地紅国旗」の掲揚、国歌たる「三民主義」の斉唱、中国人名使用の全面回復などがある。さらに、「忠孝」「中山」「中正」「南京」「民族」「民權」「民生」などの道路名や地名が台湾各所で見られるようになった。

第2に、「国語意識の形態」の確立がある。陳儀は、抗日戦が終結したばかりでまだ台湾に赴任していなかった1945年9月2日に、「私は台湾に着いた後、国語(標準中国語)教育に着手する。台湾同胞に祖国の文化を理解させる」と、台湾での言語教育について単刀直入に表明している。国語教育を強く重視したことで、その後に行政が方言に強い制限を設けることに結び付いた。その結果「国語だけを尊重。方言は抑圧」という現象が出現した。国語意識を形にした政策の推進が強行されたことに伴い、台湾における国語の普及の度合いは短期間内にかなり高い水準に達した。それは、抗日戦終結前の大陸における国語普及の実績を上回ったばかりか、(中華人民共和国が成立した)1949年以降の大陸において進められた普通話(標準中国語の中国側呼称)の成果をもはるかに凌駕(りょうが)するほどだった。事実、(方言使用の規制が緩和された)70年代以降も、家族全員が同一の方言圏出身者である家庭内で、プライベートな会話に国語を使用することは全く普通の現象だった。これは、同一時期の中国にはあまりないことである。

「祖国化文化運動」は60年代に入り、中国共産党が大陸で推進した「文化大革命」に対抗するため、中国アイデンティティーを強調する「中華文化復興運動」に引き継がれることになる。実際には「祖国化文化運動」であれ「中華文化復興運動」であれ、蒋介石・蒋経国の二世代政権時に設定された「祖国」の座標によるものであり、中国大陸を含めた中華民国を明らかにするものだった。この二つの文化運動を経て、長期に及んだ「中国化」教育の成果も加わり、「中国人」意識は台湾社会に根付き、90年代まで続いた。

台湾行政院(台湾政府)大陸委員会が93年1月に実施した世論調査によると、回答者の48.5%が自らを「中国人」と認識しており、32.7%が「台湾人でもあり中国人でもある」と回答した。両者を合計すれば、台湾民衆のうちの8割が、自らを「中国人」と認識していた。しかし、台湾社会でその後に出現した「本土化(自分にとっては台湾こそが本土であり、中国は別の場所とする考え方の進行)の波の中で、それまでは主流だった「中国人」意識は急速に衰え、90年代末には、「台湾人」意識が主流を占めるようになった。その傾向は現在も続いている。

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林泉忠LIM John Chuan-Tiong経歴・執筆一覧を見る

東京大学法学博士。中央研究院近代史研究所副研究員、国立台湾大学日本研究センター執行委員兼准教授。これまで琉球大学国際関係学国際社会システム学科准教授(政治・国際関係)、東京大学兼任講師、ハーバード大学フェアバンク中国研究センターフルブライト学者、北京大学歴史学科客員教授など。主な研究領域は東アジア国際関係、特に中日台関係、琉球研究、釣魚台(尖閣諸島の台湾側呼称)、両岸三地関係など。主な著作には『「辺境東アジア」の政治アイデンティティー:沖縄・台湾・香港』『中国人とはだれか> 台湾人と香港人の帰属アイデンティティーを展望する』『21世紀の視野の下での台湾研究』(主著者)および学術論文30点あまり。

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