「祖国」はどこか? ——台湾・中国・香港で異なるアイデンティーのコンテクスト

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林泉忠 【Profile】

「97後」の香港における「祖国」のコンテクスト

1997年の返還後、香港社会における「祖国」のコンテクストは大きく変更された。全体的な流れは、中国における「祖国」の用法の延長とされた。つまり「祖国」概念の「大陸化」だ。北京当局が掌握する香港特別行政区政府は、「香港人の心の回帰」のために返還当初から学校でも社会でも一連の「国民教育」を推進し、香港市民の中華人民共和国に対する忠誠心を強化した。

香港特別行政府が進める「国民教育」は、公民教育委員会が所管する。同委は青年事務委員会とともに2004年、国民教育の推進に専門的に責任を持つ「国民教育専門責任チーム」を発足させた。その重要な活動は社会教育と学校教育に分けられる。社会教育における主要かつ具体的な活動には、「国旗・国章・国歌を知る」のチラシ、「祖国を知る」のパンフレット、Q&A形式の「一国二制度を知る」の漫画版を含む小冊子、さらに親子向けの「私は中国人」といった多くの宣伝品の制作以外にも、全香港18区の大型商業施設と政府ビルにおける「国旗・国章・国歌巡回展」開催や「青年内地(大陸部)視察団」を結成し資金援助することがある。

20年にわたり「国民教育」のプロジェクトを強力に進め、さらに「祖国」の概念が単一化する傾向も加わり、香港人の中華人民共和国に対する見方、ないし国家アイデンティティーには明確な変化が生じた。香港中文大学アジア太平洋研究所の「香港市民の中国大陸の発展に対する意見調査」、学友社の「中学・高校生の帰属意識調査」など、国民の帰属アイデンティティーについての多くの調査によれば、いずれも期待したように香港人の間で「中国人」という帰属意識が2009年前までは断続的に上昇していった傾向を示している。筆者と香港大学が05年から07年にかけて3年間連続で複数国で実施した世論調査でも、香港関連の部分ではこういった特徴が出ている(表1参照)。

表1 香港民衆の自分の帰属アイデンティティーに関する認識

項目 2005年 2006年 2007年
香港人だ 15.5% 13.3% 21.2%
中国人だ 28.1% 33.0% 21.7%
香港人でもあり中国人でもある 55.9% 53.0% 56.3%
その他 0.4% 0.8% 0.7%

注:
1.「あなたは自分を香港人だと思いますか、それとも香港人ですか、あるいは両方だと思いますか?」との問いに対する回答。
2.「分からない」「答えるのが難しい」との回答、あるいは回答がなかった場合には「その他」とした。
出展:林泉忠博士と香港大学の民意研究計画が2005年から07年11月の同時期に実施した電話調査による結果報告
調査は18歳以上の香港住民を対象とし、毎回1000件以上の有効回答を得た。

もちろんこの種の変化は、国民計画を強力に進めたことだけの結果ではない。香港が返還されてからの大陸の高度経済成長と連動したものであり、大陸での経済における成果が返還後の、特に最初の10年間の香港において「中国人」との意識を高め、「祖国」とは中華人民共和国を指すというアイデンティティーを向上させた主な要因だ。

表2 香港民衆の中華人民共和国に対する祖国としての認識(2007年)

選択項目 割合
認識する 89.0%
認識しない 8.3%
その他 2.8%

注:
1.「あなたは中華人民共和国をあなたの祖国と考えますか」との問いに対する回答。
2.「分からない」「答えるのが難しい」との回答、あるいは回答がなかった場合には「その他」とした。
出展:林泉忠博士と香港大学の民意研究計画が2007年11月に共同実施した電話調査による結果報告
調査は18歳以上の香港住民を対象とし、1000件以上の有効回答を得た。

2008年を過ぎると、香港社会で帰属アイデンティティーについて、改めて逆転傾向が出現した。これについては、別の話になる。

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林泉忠LIM John Chuan-Tiong経歴・執筆一覧を見る

東京大学法学博士。中央研究院近代史研究所副研究員、国立台湾大学日本研究センター執行委員兼准教授。これまで琉球大学国際関係学国際社会システム学科准教授(政治・国際関係)、東京大学兼任講師、ハーバード大学フェアバンク中国研究センターフルブライト学者、北京大学歴史学科客員教授など。主な研究領域は東アジア国際関係、特に中日台関係、琉球研究、釣魚台(尖閣諸島の台湾側呼称)、両岸三地関係など。主な著作には『「辺境東アジア」の政治アイデンティティー:沖縄・台湾・香港』『中国人とはだれか> 台湾人と香港人の帰属アイデンティティーを展望する』『21世紀の視野の下での台湾研究』(主著者)および学術論文30点あまり。

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