台湾を変えた日本人シリーズ:蓬莱米をもたらし、「台湾農業の父」となった日本人——磯永吉

文化

46年ぶりの帰国

1957年8月29日台湾からのCAT機が山口県にある岩国飛行場に着陸し、一人の老農学者がタラップから降り立った。71歳の磯永吉である。

帰国する磯永吉夫妻(提供:古川 勝三)

12年に渡台してから46年が経過していた。帰国に際し、蔣介石総統は日本の文化勲章に当たる「特種領綬景星勲章」と一時金5000ドルを贈り、台湾省議会も生涯年金として「蓬莱米」20俵(1200キログラム)を毎年贈り続ける決定をし、実施した。台湾農業に多大な貢献をしたことに対する感謝の表明であった。

北海道から麗しの島台湾へ

1886年11月23日に広島県福山市で生まれた。県内にある私立日彰館中学を卒業すると札幌農学校に入学、1911年に東北帝大農学科(札幌市)を卒業した。翌年3月には台湾総督府の農事試験場種芸部農作物育種係の技手として台北に赴任した。ここで始まったばかりの米種改良事業に参加し、これが生涯の仕事となった。25歳のときである。

のちに「台湾農業の父」とも呼ばれた磯は一体、台湾で何を成し遂げた日本人なのか?その足跡を追ってみたい。

磯が渡台した頃の台湾米は、ぱさぱさした食感のインディカ種で1200近い品種があり、赤米や烏米も混入していた。当時の日本は米不足のため台湾米を移入していたが、内地米の半値程度でしか売れなかった。そこで99年、台北農事試験場で日本人の口に合う粘りのあるジャポニカ種10品種の試験栽培をしたが、栽培法が確立してないため失敗した。

総督府はインディカ種の台湾米の研究を優先して実施することにし、1906年の屏東・鳳山での栽培を皮切りに、赤米の除去や優良品種の選抜などを全島の農事試験場で行っていた。

渡台して3年目の15年2月に技師に昇進した磯は、台中農事試験場に場長として赴任した。品種改良の成功には優秀な協力者の必要性を痛感していた磯の下へ、嘉義廳に勤務する末永仁技手が試験場農場主任として10月に赴任してきた。二人は1886年生まれで共に野球が好きで気性も合った。何よりも内地種米の品種改良に熱意を持っていた。

研究においては磯が理論面を、末永が実践面を担当するという両輪のごとき良き関係は、やがて大きな成果を上げ、実を結ぶことになる。

赴任した年に「遺伝子による台湾稲純系分離並びに選抜法」に成功し、台湾稲の優良品種350品種を選抜した。その後、不可能と言われたインディカ種の台湾米とジャポニカ種の日本米の交配に成功し、「嘉南2号」「嘉南8号」など100種もの育種にも成功した。

17年には末永が「稲の老化防止法」を偶然発見した。「稲の老化防止法」とは、小さく強健に育てた苗を従来よりも早い時期に本田へ移すと方法である。この簡単なことが、これまで老熟苗を移植していた台湾稲の田植えの常識を大きく変えることになる。

磯の研究と指導により、台湾各地で稲の栽培が奨励されたため、収量が増え、日本においても高値で取引されるようになった。この状況を知った伊沢多喜男総督は、26年5月に開催された第19回大日本米穀大会において台湾で栽培される日本種を総称して「蓬莱米」と命名した。

農民はいもち病に強い品種を望んだので、25年に中央研究所嘉義農事試験支所で選抜されていたいもち病に強い「嘉義晩2号」が奨励された。しかし、「嘉義晩2号」は食味に問題があり市場価値が低いため、新品種の蓬莱米の出現を期待するようになった。

蓬莱米の代表「台中65号」の育種

台中農事試験場で磯の支援の下で研究されていた「神力」と「亀治」の交配種は、「台中65号」と命名され、交配から3年後に選抜を終えた。2年後の29年に奨励を開始、種もみを農家に配布した。「嘉義晩2号」の後継品種を待ち望んでいた農民は、「台中65号」には耐病性、広域性があり、一期・二期作ともに適応すること、また、施肥により収量が増え、倒伏しないことなどから歓迎され、全島に普及する勢いを見せた。「台中65号」を筆頭に蓬莱種は全耕地面積の60%に植えられ、34年には75万トンもの蓬莱米が日本に移出された。

このため、米作農家は経済的に豊かになり、蓬莱種の出現は農民だけでなく、台湾農業を大きく変えるとともに台湾人の食生活にまで大きな影響を及ぼした。現在栽培されている蓬莱米の新品種にも「台中65号」の血が流れており、まさに「台中65号」は蓬莱米の代名詞と言っても過言ではない。今日、蓬莱米の作付面積は全耕地面積の98%に達し、戦前の生産額をはるかに上回っている。

たぬきおやじ

磯永吉(提供:古川 勝三)

磯は渡台するとき、新妻・たつを伴っていた。大正期に愛子、百合子が生まれた。官舎に帰ると、まず娘を膝の上に載せるのが常だった。磯はめったに手紙を書かない。学位論文の下書きまで妻に書かせるという徹底ぶりである。手紙の代わりに電報を多用した。出張中の部下へも電報を打つ。受け取った方は驚くが、電文は「おかみによろしく」だったりする。

磯は日彰館でも、札幌農学校でも、奨学金で卒業するほど優秀であった。頭脳明晰(めいせき)で、しかも美形であったから、もてもした。そのうえ、ユーモアがあり、飾らない性格のためか政治や行政の人間に顔が広く、学者タイプではなかった。結果的には、そのことが蓬莱米の普及には役に立った。学生が最も緊張する卒論発表でも良い時は「君、憎いね」。逆の時は「そうかね」だけである。知っていても知らぬ顔をする磯を、学生はいつしか親しみを込めて「たぬきおやじ」と呼ぶようになった。

台湾に磯永吉あり

総督府農業部種芸科科長を務めるとともに中央研究所の技師を兼任した磯は、研究室に閉じこもることなく台湾全島に足を伸ばし、蓬莱米の普及に勢力を注いだ。

また、磯は蓬莱米だけでなく輪作作物の研究にも力を入れ、「台中小麦3号」をはじめとする小麦の品種改良や大麦、甘藷(かんしょ)、亜麻、トウモロコシ、タバコなど裏作物の改良や育種にも尽力した。まさに台湾農業を一大変革した日本人であり、「台湾農業の父」と言っても過言ではない。そのうえ、現地の農民の悩みを聞き指導もするため、「台湾の農民で磯永吉を知らない者はいない」とまで言われ、「蓬莱米の父」として農業関係者に高く評価された。

28に「台湾稲の育種学的研究」と題する学位論文で北海道帝国大学の農学博士号を取得し、設立されたばかりの台北帝国大学理農学部の助教授に就任。2年後には理農学部農学科の教授として多くの教え子を世に送り出した。「台湾全土が研究室である」と台湾中に足を運び、「大地が教室である」と現場を大事にした。学生は「磯のおやじ」と親しみを込めて呼んだ。

45年日本はポツダム宣言を受け入れ、台湾を放棄した。日本人が台湾を去っていく中で、中華民国政府の要請により、農林庁顧問として台湾の農業指導を続けた。磯の教え子である徐慶鐘、黃栄華、詹丁枝、陳烱崧等は、戦後の台湾農業になくてはならない人材として活躍し、台湾農業に大きく寄与した。

54年には「Rice and Crops in its Rotation in Subtropical Zones」を英文で発表、台湾だけでなく、東南アジアの米作りに大きな影響を与えた。帰国後も日本各地で農業指導を実施し、後輩の育成にも尽力した。61年5月には日本学士院賞を、66年には勲二等旭日章を受けたが、翌年入院し72年1月21日、85歳で亡くなった。米寿にあと3年足りなかったが、台湾と世界の農業に大きな財産を残した生涯だった。

バナー写真=磯永吉(右から一人目)と大島金太郎博士(右二人目)、末永仁(右から三人目)(提供:古川 勝三)

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