日本人よりも「日本人」だった台湾人——追悼・蔡焜燦さん

政治・外交

訃報に日台で扱いに差が

蔡焜燦さんの存在は、台湾でよりも、むしろ日本で大きかった。ライフワークとして取り組んだ台湾歌壇日本政府から叙勲「旭日(きょくじつ)双光章」を受章している。その訃報に対し、日本メディアは読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞などがかなりの行数を使って報じた。

一方、台湾で報じたメディアは自由時報ぐらいだった。それは台湾における蔡焜燦さんの知名度が日本のそれに大きく及ばないことを物語っている。しかし、それは不自然なことではない。例えば、日本で有名な外国人でも、本国では知名度がないケースはままある。台湾人の評価が、日本と台湾との間で非対称なのは珍しいことではない。その代表格が李登輝元総統だろう。

李登輝元総統の日台でのイメージ

李登輝元総統の日本における圧倒的な尊敬のされ方は、台湾社会ではいつも少々違和感を持って受け止められている。なぜなら李登輝氏はその後も台湾では現実政治に関わってきたため、国民党のみならず、民進党にも李登輝氏を嫌う人を作り続けてきたためである。もちろん、李登輝氏の存在によって2000年の総統退任以降の台湾政治が大きく変わったことも確かである。

これは、政治と一線を引いてご意見番に徹することをしなかった「代価」のようなものであろう。それに比べ、日本においての李登輝像はほぼ1996年の初の直接選挙の総統選で中国の圧力をはね返して圧勝を収めた頃のものと変わっておらず、「李登輝像」の時間軸が日台で異なるようになっている。

台湾における「日本語族」

『街道を行く 台湾紀行』

ちなみに『台湾人と日本精神』で明かされている「秘話」で私が一番面白かったのは、台湾出身の作家で司馬遼太郎さんの学生時代からの友人である陳舜臣(ちん・しゅんしん)さん(1924~2015年)が、李登輝元総統から「台湾について書いてくれる日本人の作家」がいないか尋ねられ、「台湾紀行、まだやな」と司馬遼太郎さんのことを思い出し、後の『台湾紀行』の実現につながった話である。

『台湾紀行』はいわば、発案・李登輝、接待役・蔡焜燦で行われたプロジェクトだったということもできる。李登輝元総統と蔡焜燦さんのコンビは『台湾論』でも再び活躍した。この2冊は、「日本語族」と呼ばれる台湾の日本語世代の価値観に偏りすぎているという指摘が一部にあるが、戦後日本において半ば無視されてきた台湾を日本人に再認識させる巨大な反響を呼び起こした貢献は大きかった。

蔡焜燦さんが特殊であったのは、台湾在住でありながら、長年台湾を訪れる日本人の接待役として、司馬遼太郎さんや小林よしのりさんを含め、一人また一人を温かくもてなし、その存在感を広げていったことだろう。

次ページ: 「日本人よ、胸を張りなさい」と言い続けた蔡焜燦さん

この記事につけられたキーワード

台湾 司馬遼太郎 蔡焜燦 李登輝

このシリーズの他の記事