台湾で「英雄」となった知られざる日本人

政治・外交 社会

二二八事件

1947年2月28日、台北で闇たばこ売りの女性が取り締まりの警察官に殴打された事件をきっかけに台湾人の怒りが爆発、さらに陳儀・行政長官の公舎に向かった抗議のデモ隊が機銃掃射を受け、多数の死傷者を出した。国民党支配に対する台湾人の暴動は一気に全島へと広まっていく。台北、台中、嘉義、台南、高雄……暴動は、国民党政府が抑えられるようなものではなく、陳儀はなすすべがなかった。しかし、陳儀はひそかに蔣介石に大陸から軍隊の派遣を要請しており、精鋭軍の到着を待って騒乱を鎮圧し、一挙に弾圧する方針をすでに固めていた。

徳章は、陳儀らの思惑を見抜き、台南市の騒動が拡大しないよう奔走する。台南市の「臨時治安協助委員会(後の二二八事件処理委員会)」の治安組組長となった徳章は、俊英が集う台南工学院(現在の名門・成功大学)の学生たちが決起しようとする現場に自ら乗り込み、巧みな弁舌と迫力で、彼らを説得する。また、すでに決起していた学生たちからは、武器を回収し、これを当局に返却するのである。

徳章の予想通り、3月9日未明、国民党軍の精鋭第21師団が基隆と高雄から上陸するや、それまで民主化を承諾していた陳儀は、方針を翻し、事件の首謀者たちが「潜入してきた共産党分子」と「留用日本人」であったとし、弾圧に乗り出していく。留用日本人とは、戦後も引き継ぎや技術移転などのために、請われて台湾に残っていた日本人のことだ。陳儀は、彼らを騒乱の首謀者に仕立て上げ、そのため、事件を鎮静化させようとした徳章らも一挙に逮捕される。国民党政府は、この事件を機にエリート層の一掃を狙い、つまり、日本統治時代の知識階層を一網打尽にしようとしたのである。

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